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バーナム博物館
三つの小さな王国
山の郵便配達
飛蝗の農場
エドウィン・マルハウス
ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前(上・中・下)
ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後(上・中・下)
ロゼアンナ
ローマ人の物語 パクス・ロマーナ(上・中・下)
聖女の遺骨求む
蒸発した男







蒸発した男  
             マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー 高見 浩・訳

遅めの休暇をやっととることができたマルティン・ベックだったが、南の島で休暇に入ったとたんに、有無を言わせぬ口調で新しい事件のために呼び戻された。
任務はハンガリーで失踪したルポ・ライター、アルフ・マトソンの捜索だった。前作『ロゼアンナ』の事件から二年経っている。休暇を奪われたこともあって、あのときの事件への打ち込みようと比べると今は任務に気が乗らない。しかし、次第に複雑な事件の渦に飲み込まれてゆく。

舞台は中欧ハンガリーのブダペスト。アルフ・マトソンが消息を絶ったのは、ブダとペストに分けられる街のブダ側に建つホテルだった。
ここで私は思いをはせる、「私が泊まったのもブダ側のドナウ川沿いに建ち、エリザベート橋の向こうに王宮を臨むホテルだったんだ.。o○」すると自然に臨場感も沸いてくる。
ハンガリーは思いの外アジアに近しい文化や習慣を持っている。温泉のシーンが面白かった、作者はこの作品のためにハンガリーを改めて訪れたと書いてあった、細かい取材が生きている。

ストーリーの下敷きに、終戦直後に起きた「ブダベストでのスウェーデン人失踪事件」があり、国際的問題に発展しかねない緊迫感があって、警察の他に大使館も関わってくるなど、私には展開予想はできなかった。蒸発した男の行方は後半になっても、終盤にさしかかっても一向に見えてこなかったのだ。
しかし、最後の最後、事件はマルティンによって解明された、あざやかだった。

『ロゼアンナ』での登場人物に絵葉書を送ったり、後に続く作品名に使われている『サボイ・ホテル』が出てきたり、そんなところにシリーズものの楽しさを味わっています。
<041216>





聖女の遺骨求む −修道士カドフェル シリーズ−   
                エリス・ピーターズ  大出 健・訳

12世紀のイングランドを舞台にした時代ミステリー。
主人公が修道士ということで、全体が暗く、堅苦しかったらどうしよう、という懸念があったけれど、その主人公の修道士カドフェルがハーブを育てているという。20巻からのシリーズになっているそれぞれの作品にはいろいろなハーブがその力を発揮しているらしい。それは読むためのひとつの魅力だった。

カドフェルの所属する修道院では、祀る聖人の遺骨をほしいと考えていた。
ある日コロンバヌスという修道士が聖女ウィニフレッドとのめぐり合わせの啓示を受けたという。そこで遺骨の獲得に積極的な副修道院長のロバートとコロンバヌス、そしてその奇跡を目撃したジェロームなどが同行してウェールズのグウィセリンという村へ行くことになった。聖女ウィニフレッドの遺骨を譲り受けに赴こうというわけだ。

カドフェルは人生経験から言って、他とは多少かわった修道士。いまやただ穏やかに引退後の人生を過ごしたいとでも言うように、修道院併設の薬草園で薬草や香草を育てている。ミサの間に居眠りをしてしまっても別にそれを咎められもしないといった存在だから、聖人の遺骨にもさほど興味はないのだが、通訳として旅に加わることとなる。

ここまで書いたのはほんの導入部分、一行が訪ねた村ではすんなりと遺骨を引き渡してはもらえないし、挙句の果てに殺人事件がおきる。それをまーるく収めるのがカドフェルなのだ。修道院では変わり者でも、一行に反発する村人からは多大な信頼を即座に得てしまう、それがカドフェルの人柄だ。これからのシリーズが楽しみ。

「作者はこうストーリーを構築した」と言わんばかりに、ああで、こうで、とみなまで事件の真相を書いて見せないのは「ひとつ上を行く品のあるミステリー」なのではないでしょうか?

この巻のハーブはローズマリー、これは私にも育てられる丈夫なハーブ。
お話の中にはケシも出てきました。

H2さん、マルチヴァクさんなど愛読者多数のシリーズなので、安心して私も順次読んで行こうと思います。
<041202>






ローマ人の物語 パクス・ロマーナ(上・中・下)   塩野 七生

アウグストゥスとは、カエサルによって後継者として指名された若きオクタヴィアヌスがローマ帝国の初代皇帝となった時に元老院が贈った尊称だそうだ。

執政官の職やプリンチェプス(第一人者)という称号を手にし、最高権力者の座について後も、静かに徐々に(目立たぬやり方で)、更なる改革を志していたアウグストゥスだったが、彼はカエサルの死から「殺されてはならない」という教訓を得ていた。周囲には常に、控えめで押しが弱く、言葉による反論など不得意なアウグストゥスを、表立って非難する向きもあったが、アウグストゥスは「彼らが剣をむけないことに満足しよう」とする自制心を持っていた。

カエサルの巻のようなドラマチックな展開があるわけではないが、このアウグストゥスの巻には、その後のローマ帝国の礎となる法や制度にむけられた初代皇帝の涙ぐましい努力とその才能があふれるほどに披露されている。
貨幣制度、選挙制度、徴兵制度、税制、治水や建築に至るまで、どれもこれも古代ローマのすばらしさ、完成度の高さに感心させられるが、ローマ帝国の暁にアウグストゥスは本当に無くてはならぬ人物だった。

加えて言うなら作者の「調べ」。膨大な資料を読みこんでいる塩野さんにはいつもながら舌を巻く。そして、もうひとつ言うならアウグストゥスの業績を語りながらも随所に(著者が惚れこんでいるに違いない)カエサルへの思いが見えるのが楽しい。

中巻にある「世紀祝祭」の様子や、「平和の祭壇」に彫られた彫像「家族の肖像」などを紹介している部分は興味深い上に、当時の「平和」とか「幸福感」が伝わってきて印象に残りました、今どきでは計り知れない優雅さです。

思えば、カエサルは若干17歳の若きオクタヴィアヌスに、どこまでのことを期待していたのだろう?超人カエサルの遺志を継ぎ、プレッシャーから逃げ出すことなく結果を出して、長寿をまっとうしたアウグストゥスに改めて「国家の父」という思いを致した『パクス・ロマーナ』だった。
<041108>






ロゼアンナ
      M・シューヴァル P・ヴァールー 高見 浩・訳

作者の二人はご夫婦だそうだ。

「死体は七月八日、午後三時をまわった直後に発見された。…」マルティン・ベックシリーズ第一作は、いきなりこう始まるのだ。

夏のある日、スウェーデンの運河から若い女性の死体が引き上げられた。この事件を担当するのはわれらがマルティン・ベック警部と地元警察。
初めて読んだのに「われらが」なんて、相当私は気に入っている。シリーズで読めるミステリーを探していたからです。大変好感触。

しかし、警部は凄腕らしいのだけれど、事件の解明は難航し、3ヵ月たっても被害者の身元すらわからない。この辺うそっぽくなくて好ましい。そのうちアメリカから情報がもたらされる。何と電報が入るのだ、古い。国際電話は交換手を通すし、雑音は激しいし、国際電話自体が高くついて珍しいという雰囲気がある。1965年の作品です。携帯電話も当然ありません、張り込みの刑事は署に連絡を取るのにいちいち使う公衆電話を探して走り回ったりします。このあたりのアナログ感も楽しめる。

被害者の名前は題名となったロゼアンナというアメリカ人観光客だった。いつ、どこで、なぜ、そして誰が?じわじわと謎が解けてくる。

河を行く船旅は日本人にはなじみが薄いと思うのですが、船室を予約している乗客以外に、水門ごとに、あるいは街の船着場ごとに乗り降りする甲板船客がある。そんな見知らぬ船旅を想像しながら、お読みください。

ぎんこさんから教わりました、順次読みたいシリーズになりそうです。
<041028>







ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後(上・中・下)
塩野 七生

ルビコン以後の三巻(ローマ人の物語11.12.13)では、ローマが帝政をひくまでの約20年に及ぶ内戦の記録を追うことになる。

意を決し、ルビコン河を渡ったカエサルは、かつての三頭政治の同士ポンペイウスを含む元老院派と明確に敵対することとなり、国内は属州を巻き込んで内戦状態になる。困難な闘いを切り抜けてゆく姿は手に汗握る展開で、読書は止まらない。

しかし、カエサルは理想をまっとうする道半ばで暗殺の刃に倒れた。後継者オクタヴィアヌスがカエサルの意志を実現させるが、なぜその人がカエサルでなかったかと思うと本当に残念でたまらない。

中巻終わりで、カエサルは暗殺されてしまうので、下巻はその後を継ぐオクタヴィアヌスと、アントニウスそしてクレオパトラの物語が繰り広げられる。
カエサルによる後継者の人選は、なんと的確だったことよ!この流れなくしてローマのその後の歴史はありえない。

突き動かされるように、または生き急ぐように、変革を自らおこし成して行くカエサルの様子は、語るのが口幅ったいほど神がかり的だった、まさに一気読み。

「寛容のカエサル」の理想を引き継ぐためには、カエサルの好まなかった粛清も行ったオクタヴィアヌスだったが、彼を表現するなら「パクス(平和)」だそうだ。まさしく時代は『パクス・ロマーナ』へ向かう。
<041018>






ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前(上・中・下)
塩野 七生


『ローマ人の物語』にいよいよカエサルが登場。

「あんまり方角は気にしないで歩いていたけど、パラティーノの丘って、フォロ・ロマーノの南側だったんだ。」「カエサルの生地もわかっているんだな。」
こんな風にのんきに読み始めた本書、中巻半ばから面白くなってきた。ガリア戦役で言うなら2年目、戦地とそのときのローマの状態を書いているあたりからグンと興味が深まる。

他人の財産を我が物にするつもりはまったくないが、他人と自分の財産の区別をしなかったなんて、スケールはおおきいけれど、普通は迷惑な人。それでいて非難されないのだからこれは持って生まれた人柄の良さだ。
その一方、一つひとつの軍ごとにある雰囲気、同質感を重んじて、軍の再編を避けるなどというデリケートさもやはり、持って生まれた指導者としての資質かも。

物心ついてから亡くなるまで民衆派として終始一貫考え方を曲げない、その行動力は魅力的。さぞや頼り甲斐があったことだろう。存在感アリ。

文庫本3冊からなる『ルビコン以前』は私にとって下巻にエキスが詰まっていた。
8年の年月をかけてガリア全土を治め、ローマへ向かうカエサルだったが、ローマでは反カエサルの元老院派が三頭政治の一角を崩すべく、ポンペイウスを元老院派にひき入れていた。
ローマへもどり話し合いがつかなければ、内戦をおこしてしまうことに逡巡しながらも、「ここを越えれば人間世界の悲惨、越えなければわが破滅」と心を決め、カエサルはルビコンを越えて行く、絵になる光景だ、格好がよい。

さて、登場人物の中に大変魅力的な人物として印象に残ったのが、ガリアをまとめた男ヴェルチンジェトリックス。是非書きとめておきたい、若いのになかなかのお人だった。

追記:イタリア語ではドナウをタヌビウスというらしい、これは私の個人的な興味。
<041013>







エドウィン・マルハウス
    あるアメリカ作家の生と死(1943‐1954)ジェフリー・カートライト著

               スティーブン・ミルハウザー    岸本佐和子・訳

エドウィン・マルハウスは「まんが」という傑作を残した夭逝の作家だ。
ジェフリー・カートライトはそのたった11年しか生きなかった親友エドウィンの伝記を綴る。
憑かれたようにその作品を書き上げる伝記作家ジェフリーもまた11歳。
この本はそういう特異な設定で書かれている。

子供のころのことなんか、ほとんど忘れてしまった、ただぼんやりと、なーんにも考えずにその時代を過ごしてしまったからに違いない。
そう思っていたけれど、この本を読んでいると思い当たることがいくつも出てくる。

思い出すのだ。
子供達の考えること、やらずにいられないこと、そんないろいろを思い起こし、共感できることで、案外私も子供らしい世界に住んでいたんだと嬉しくなった。

自分の思い出をも含めて、おとなの私がこの本に繰り広げられている世界を見ている。いとおしくてたまらない。

でも、第一部、もしくは一部と二部だけを読めば済むのだったらどんなに良かっただろう。
第三部はつら過ぎた、この緊張感はちょっと今までにない体験だ。
主人公たちは子供だとわかっているから、この緊張感はさらに高まる。終盤はついに読み飛ばしたくなるほど先を急く気分になってしまった。
結果を知りながら読み急ぐわけは、この作品の巧みさにある。
11歳の伝記作家ジェフリー・カートライトの著述だとするこの設定が、読者をひきつけるらしい。この少年こそが読者がその作品から実感できる本当の天才だ。
<040927>






飛蝗の農場       ジェレミー・ドロンフィールド  越前敏弥・訳

えらい物を読んでしまいました。
読後感が、つまりよろしくありません。

出だしは良かったのです。
テンポも良好、只、これサイコですね、苦手です。
読ませるうまさは認めます、結局最後まで読み通しました。

解説に「―なんだ、これは?」とあります。
「よかった!ミステリーに慣れてる人でもそう思うんだ!」
<040913>






山の郵便配達     彭見明 (ポン・ヂエンミン)  大木 康・訳

二年ほど前に映画を観た。
映画が先になった上に、それが素晴らしかったせいか原作を見過ごしていたが、表題を『山の郵便配達』とした本作品は、他に5篇も載せられている短篇集と知り、どうしても読みたくなった。
並み居る積読本をごぼう抜き!

「山の郵便配達」
山の奥深くへも、郵便物を3日かけて運んでくれる人がいる。待ちわびる人々と郵便配達人の間には、特別なコミュニケーションが生まれること、わかるような気がします。

郵便業務の末端で果してきたその仕事は、主人公にとって人生を傾けたかけがえのないものだった。でも、重い荷物を背負って山を登り、身を切るような冷たい河を歩いて渡る重労働にはもう身体が耐えられないのだ。永年その仕事に従事してきた主人公に、そろそろ引退の時期がやってきた。

引退といえば、老いを寂しく思いながらもどこか肩の荷をおろしてほっとできそうなものだが、主人公の心は複雑だった、仕事を引き継ぐのが息子だからだ。
一匹の犬だけを連れての孤独な行程や、留守宅の家族とふれあう時間のない生活、この仕事のつらさを誰より知っている主人公は、後を継いでくれる息子を誇りに思いながら、その行く末を案じている。

お話は父にとって最後であり、息子にとって最初となる山行きを語る。舞台は中国湖南省の大自然であり、言葉少なに通い合う父と子の心がしみじみと伝わる。
父は、自分を気遣い、かばうまでに成長した息子を見ることができ、息子は仕事を通してしかわからない父の偉大さを知る。とても映像的な作品だった。

あわせ集められている短篇も、粒揃い。
映像的という目で見ると「沢国」(たくこく)も無声映画で作品が出来そうなくらい魅力的だ。
映画ができそうといえば「愛情」がすでに映画化されているらしい。うなずけます、出来すぎとすら思える完璧なストーリー。
表題作に関連して父の心をたっぷり感じさせられたのは「南を避ける」。

文中、携帯電話やカラオケも出てくるし、食生活も西洋化されている様子がみられるのに、全体的に実際よりも時代背景を20年くらいレトロに誤りそうになるのは、日本人としての私のノスタルジーだろうか?
<040823>






三つの小さな王国   スティーヴン・ミルハウザー  柴田元幸・訳

『バーナム博物館』と平行して読んでいた本書には、又また粒ぞろいの中篇三作が収められている。どちらかといえば私はこちらのほうが気に入っています。

「J・フランクリン・ペインの小さな王国」
アニメーションの製作にこだわりを貫くフランクリンの世界は、素朴で、地道で、暖かくて、そしてどことなく悲しい。
この悲しいところがなんとも言えない。
最後は涙、祝福はまぼろし、夢うつつ。
子供の頃、ノートの端に描いたパラパラ漫画をふと思った。

実は「王妃、小人、土牢」を最初に読んだ。
ミルハウザーに最初に触れたのがこの作品でした。
多少実験的な御伽噺。
事の起りはちょっと不自然ではあるけれど、ほんの小さな疑惑がどんどん周囲を歪めて行く様子は、目が離せない。
端正な文章というのが第一印象で、好きになりました。


「展覧会のカタログ――エドマンド・ムーラッシュ(1810−46)の芸術」
画家エドマンド・ムーラッシュの絵が並べられたとしたら、そこはどんな展示室になるだろうか。滅多に人は訪れないだろう、でも、入口に近付くと暗い室内に吸いこまれそうだ。
彼は鬼才かもしれない。
語られる画家のその画風が、どことなく不吉なものを予感させている。見た事のない絵にぞくぞくするなどという奇妙な体験をさせられる。

すべての絵は題や大きさ、画材、製作年などを記して飾られていて、その絵の解説を読むうちに、画家やその周囲の人達、彼らの生活などが見えてくるという趣向だ。

エドマンド・ムーラッシュとその妹、そして画家の友人とその妹の4人は絡み合ったまま悲劇へ続くその人生を共有することになる。

魅力的な作品集だ。
<040823>






バーナム博物館   スティーヴン・ミルハウザー  柴田元幸・訳

10篇の不思議な短篇からなる。

表題作も魅力的だけれど、ダントツで最後の「幻影師、アイゼンハイム」が好き、これだけ何回でも読みたい気分。
幻影師と題にあるのに、豊かな想像力で作り上げられた世界では、奇術もやっぱりここまで行かなきゃなんて、ただの「マジシャン」のような感覚で読み始めたのはのは大間違いだった。
だんだんそのただならない妖気漂う舞台に魅せられて行く、その場にいて、その舞台をに魅入っているような錯角すらしそうだ。

「ロバート・ヘレンディーンの発明」もとても興味深かった。現実に侵されて行く理想なんて言えば残酷で悲しいけれど、表現のし方はどこかシュールな古いフランス映画でも見ているようだった。

この全体に漂う幻想的な雰囲気は、連日の暑さでぼんやりしている私の頭でとろとろ味わうのになんだかちょうど良いような。
<040823>




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