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光草 ストラリスコ
思い出はそれだけで愛おしい
動かないで
母への遺書
晩夏
ゼームス坂から幽霊坂 
ふりだしに戻る
ボートの三人男 
犬は勘定に入れません
朗読者 








朗読者        ベルンハルト・シュリンク  松永美穂・訳

学校帰りに身体の具合が悪くなったミヒャエルは、母親ほど年の離れた女性ハンナに助けられ、無意識のうちにたちまち恋に落ちる。
年齢差21歳、ミヒャエルにとってハンナとの出会いは、その瞬間から唯一無二の恋であり、あとになって思えば運命的な人間関係だった。

でも、主人公の物の考え方や強い良心がなかったら、ここまで成り立たたない恋でもあった。

多方面から、いろいろの立場から物事を見ようとするあまり、法学を学んでいながら最終的に裁判官や弁護士などを仕事にする決心がつかない彼。
自由と尊厳のために、自分自身の意思が最も大切だという父の言葉を心に刻む彼。
ある自責の念に悩む彼は、赤面もせず自己正当化できる他人を見るにつけ、心の葛藤が深まるばかり。
その彼が時間をかけて関わってきた恋愛がここに語られている。


三部構成のうち最終章がしずかで美しく、この章のためにT、U章があるようだ。
T章目では軽やかな、若さが印象に残る。ミヒャエルに本の朗読をせがむハンナには、これほど年下の少年との恋に身を置ける無邪気さ、純朴さ、時には幼さも感じたが、U章目ではガラリと雰囲気が変化する。第三帝国時代の重たい記憶が全面に横たわっていて、舞台がドイツであることを思い知らされる。最終章にあるハンナの部屋の様子はある意味ショッキングだった。人は何をしにこの世に生まれてくるのだろう?ハンナの人生を思いながらそんなことを考えた。
<040802>







犬は勘定に入れません ― あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎
                コニー・ウイルス  大森 望・訳

タイム・トラベル物の『ふりだしに戻る』の後、『ボートの三人男』を読んで、この作品というのは、なかなかよい流れ。
ニ段組530ページの大作、ニコニコしながら読み始め、じーっくり楽しみました。(乗り物内読者としては多少持ち運びに不便あり)

西暦2054年、大学ではタイムマシンがもう実験段階を終えている。ウワッ、たった50年後。

オックスフォード大学の史学生ネッド・ヘンリーの任務は第二次大戦中のロンドン大空襲で焼失したコヴェントリー大聖堂の再建に必要な、「主教の鳥株」という花瓶を探し出すことだった。

なかなか見つからない花瓶を求めて何度も過去と現在を行き来している間に、時差ぼけならぬ時代ぼけになったネッドはのんびりした19世紀のヴィクトリア朝で疲れを癒すことになった。
が、もちろんお話はゆっくりネッドを休ませてなどくれない。なおも不眠不休でガムバる事となる。

個性派揃いの登場人物がたくさん出て来て、お話はどたばた気配だが面白い。テムズ河では『ボートの三人男』達にも出会った、しゃれたサービスだ。
シリルというのは、ネッドが1940年のオックスフォードで出会った男テレンスの飼い犬のブルドッグ、何も言わないのに、愛らしい存在感がある、でも勘定には入らない。

タイムマシンにつきものなのは、時代をさかのぼった誰かが、過去を変えてしまうというリスクなのだが、歴史には修復機能があるという仮定が面白かった。これは使える、ちょっと安心ではないか。
<040716>






ボートの三人男   ジェローム・K・ジェローム  丸谷才一・訳

ああ、バカバカしくもどこか上品な、この愛すべき滑稽さよ!
わざとらしくなく、それとなく披露されるエピソードのおかしさに、笑わされっぱなし。
いちいち笑ってしまう、100年以上まえの作品だというのに、あるあるこういうことってある!、いるいるこういう人っている!、そう思うのは、ことの真髄をついているからに違いない。

のっけからおかしい。医学書を読んだら、どの病気の症状も今の自分にピッタリ当てはまるというのだ。すごくおかしい、けれど、その感じわかる気がしてしまう。

ある日、健康について話していたジョージとハリス、そして主人公Jは、「俺達には休息が必要だ」という結論に至り、河の旅を計画し出発した。
一行には一匹の犬が同行する。大変イギリスらしくその犬はフォックステリアであり、なくてはならないキャラクター。
『岳物語』で有名な椎名 誠さんをテレビで見たとき、そのボートには愛犬が乗っていた、カヌー犬と言ったと思うけど、あんな感じかしら?と思いながら読みすすめる。

荷造りがまた傑作。完璧に終了させたはずが絶対落ち度が露見する、しかもすべて終った後にならないと気がつかない。とてもおかしいけれど、似たことをしょっちゅうやっている私の場合は苦笑。

一事が万事、エピソードはどれもユーモラスだ、迷路の話、船を引くカップルの話、女の子たちをボートに誘った時の話も傑作だった。いり卵やピーナッツサイズのジャガイモのエピソードも逸品。

丸谷才一の訳はテンポが好くて名訳です。

テムズ河の観光案内という一面を果しながら、ボートのことも教えてくれました。私のように、普段ボートには縁がなく、休暇にボートに乗ろうという発想などない者には、それにまつわる話はどれも興味深い話題です。舟を曳くということからして発見でしたし、いろいろなテクニックや遭遇する事件も新鮮で楽しい。私にとってはボートの手引き書とも言えます。

本書には『犬は勘定に入れません』との副題があり、本書へ敬意を表して今度はそれを本題とした本があります。実はそちらを先に知ったのですが、次は『犬は勘定に入れません』へと参ります。

それにしても、誰かにこの本を勧めたい。あ、そうだ、あの人にしよう!(^・^)v
あなたにもお勧めします。
<040704>







ふりだしに戻る   ジャック・フィニィ  福島正実・訳

面白かった。
同著者の『ゲイルズバーグの春を愛す』がお気に入りなので、期待いっぱいで手に取った。
文中に、「ほかに読むものが何もないときに」選ぶ読み物として、『シャーロック・ホームズ』が出てきたけれど、私は『ふりだしに戻る』を選んでも良いと思います。もう一、ニ度は読みたいのです。

主人公モーリーは、現代のニューヨークに住む、広告代理店のイラストレーター。平凡な彼の生活に大きな変化をもたらしたのは、政府機密プロジェクトからの協力依頼だった。
プロジェクトはタイムトラベルを実験していた。それを実行する人材として、モーリーは選ばれたのだ。

アメリカの古き良き時代へと、彼は旅をする。
この手の話にありがちな機械や乗り物を使うのでなく、気持ち、イメージで時を飛んで行く。ワープじゃないけれど、こんな楽しいことは本当に大好き。

彼が旅を希望したその先は、1882年の同じ街、ニューヨーク。
そして、そこへ行く為の基点としてプロジェクトが用意した場所というのが、ダコタアパートだった。ダコタと言えばジョン・レノン、私の場合知識はその程度だけれど、その古めかしくも威厳のある立派な建物のたたずまいは、ほぼ90年も前の(本書が発表されたのは1970年)ニューヨークを読み手に身近に感じさせる。うまい!媒体としてピッタリだと嬉しくなった。

過去にあっては現代に変化をもたらすようなことをしてはならない、任務は完全な観察者でありながら時を旅することだった。1882年のニューヨークで、モーリーはその様子を絵に描き、かかわりあった人から借りたカメラで写真も撮った。思いを寄せる女性にも出会ったし、とんでもない事件に巻き込まれもした。それらのことはタイムトラベル中の出来事であるというだけで、雰囲気はいきなりセピア色となり面白く読めてしまうというのがおもしろい。

それにしてもこのたった100年程で、世の中はどれだけ変貌したことか、読みながらそれを思い知らされた。便利になったことは確かだけれど、良いことばかりではまったくない。
この作品は大変ノスタルジックだ、しかもどの時代にもそれぞれにその良さが…などというあいまいな表現でなく、明確に現代を拒絶している。

生き生きと描かれた1822年当時の描写がとても興味深かった。
<040627>







ゼームス坂から幽霊坂       吉村達也

嵐の夜に、雷の科学的神秘によって起きた奇跡。
「もしもゆうべ、あのものすごい嵐がやってこなかったら、私はこんな形でこの世に戻ってくることはなかったと思う」

読み手の心のありようによって、読み方次第で、いろんな受け止め方が出来そう。
誰かを失ってから初めて、どんな風にその人と触れ合っていたか思い知る。
まわりを傷つけてしまう痛みをおしても、思いを遂げること、遂げなくてはいられないこと。

「この地球のどこかに、きっとパパと最高の組合せになれる人がいる。その出会いを待っている人がいるはずなの。だから、絶対めぐり逢ってね。そして、その人と幸せになってね。私がそうしてあげられなかったぶん」
言われたほうはキツイわな、この台詞。
でも、そう言うしかなかったのが、彼女の真実で、これは心から出た言葉だったわけで…。

本の帯に「涙なしに結末を読めますか?」と書いてある。
泣きたかったんだろうか、私?
読んでいる時じゃなく、後で効いて来た。
<040604>







晩夏            シュティフター   藤村 宏・訳

美しすぎる、これは読み始めの頃の素直な第一印象。
自然が美しいのは好ましいことだけれど、主人公の人生、成長の様子は、あまりにまとも過ぎて、読み始めには違和感を感じながら、只ただ読み進めるしかないという感じだった。

今思えばそれは、いかに私自身が現代の雑多な、性急な、そしてお手軽な生活に慣れてしまっているかということであって、それを自然に思い知るのにさほど時間はかからなかった。
ひとたびこの世界に入りこんでしまえば、環境も人物も話題も、それらの清らかさ、正しさ、美しさがどんどん心地よくなってくる。
いままで読んだ事のない世界観を持った作品で、私にとっては比べる基準すらないまま、最後までその世界に漂った感がありますが、ある意味普遍性を極めているその安定感は本当に素晴らしい。

全体を読み通したなら、その後はいつどんなページを開いても、そこに気持ちを落ち着けてくれる清々しい透明な空間があるということがわかる安心感のある作品だ。
読みながら心に響くフレーズがいくつもあった。再読すればまた、同じ部分に気持ちが反応するかもしれないし、今度は違う部分が心に残るかもしれない。いずれにしても、一度や二度では読みきれない、読み終えてはもったいない、そう感じる本でした。

なすべきことをしっかりと成す、そういう言葉が始めの方にあった。
もう一つ、偉大な書物は常にそのどこかを読んでいる、そんな言葉も印象に残っています。

作中、薔薇の花が大切な役割を果しているのは、この気品ある作品を飾るのにこの上なくふさわしい。
<040519>





母への遺書 フィレンツェ連続殺人事件の真実 
                 アルベルト・ベヴィラックァ     大久保昭男・訳
    
原題は"Lettera alla madore sulla felicita"
「幸福についての母への手紙」というわけだけれど、実際には不幸と絶望のどん底で書かれた手紙だ。
主人公は、冤罪によって法的にも社会的にも、人格を傷つけられ抹殺されんばかりに攻撃されている。

苦手な部類の本だった。読んでいて苦しいし、表現がストレートでない分文章が難解で、デリケートなのだ。

もし彼がこの傷心のうちに亡くなるようなことがあったら、これは『遺書』となる、という設定で書かれている。だから、『遺書』として読まれたならば、その時は逆縁の親不孝になってしまうという、母に宛てられた手紙なのだ。

一般の人より感情的に敏感と思われる作家がこの状況にあって、むしろ激情を静めながら書き進めているところが読み手としては苦しく、彼が友人の不幸に触れて感情的に爆発した時はどこかホッとできたくらいだった。

いわれない悪意や暴挙に対する、静かな静かな、そして善良な抗議。

Memo(母の言葉より)
「本当の幸福というものは、かえってそれとは反対の不幸な情況に置かれた時に生まれるもの」
「世間全部が敵意を向き出しにしているような時でさえ、人は幸福でいること、それを失わずにいることができる…」
「忘れてならないものは『微笑の心』…」
「気をつけなさいよ。幸福は素晴らしいもので…。でも、用心が必要なのよ。あまりに自信をもって幸福を扱ったり、惧れの心を忘れたりした時に、幸せは壊れてしまうかもしれない…」

<040427>







動かないで    マルガレート・マッツァンティーニ  泉 典子・訳

アンジェラという15歳の女の子が交通事故で頭に重症を負い病院に運ばれる。その病院はアンジェラの父が外科医として勤務する病院であり、治療に当たったのは父の友人達のスタッフだった。
手厚い看護にもかかわらず、症状は深刻さを増し、生死をさまよう娘を前に父は自分の過去を思わずにいられなかった。

自分の罪の報いが娘を苦しめているという思いにとりつかれている。
話したところで周囲を不幸にしかしない告白を無言で語ることしか、その時の父にはできなかったのだ。そうすることで救われるとは到底感じられなかったに違いないが、それしかすることができなかったのだ。

懺悔というのだろうか。
過去の過ちと罪を改めて思い起こすことで、許しを求めている。
愛娘アンジェラの命乞いをする父がしたことは、過去にこの上なく愛したにも拘らず、それ以上に深く傷つけてしまったイタリアという名前の女性を追憶することだった。

こんな風に人は、誰にも言えない後悔に悩まされているのか。
題名の「動かないで」という言葉が作品中に数回使われている、どの場面も静止画像のように目に浮かぶ。
"Non ti muovere" 草思社
<040414>






思い出はそれだけで愛おしい  ダーチャ・マライーニ  中山悦子・訳

50歳を過ぎた女性ヴァーラが少女フラヴィアに宛てて綴った手紙から成っている。少女はヴァーラの恋人エドアルドの姪で、二人が会った当時まだ6歳の女の子だった。
何故フラヴィア宛ての手紙なのか、それは読み進めて行くにつれ理解できてくる。

思い出は、それだけで愛おしい。なのに、
現在の思い、過去へのはかない憧れに、
姿をかえて心をしめつける……
G・レオパルディ「追憶」


6年半の間に書かれた16通の手紙から、私達はヴェーラの世界へ入って行く。エドアルドの恋人として、その家族とどんな風に触れ合っていたか。二人はどんな風に出会い、一緒の時を過ごしたか。どんな友達がいたのか。子供時代はなにを思っていたか。家族の話も出てくる、妹のひとりはこの手紙を書いていた間に亡くなった。エドアルドとは結局別れることにした。
もちろん事象を連ねるだけでなく、その中にヴェーラの生き方、考え方がたくさん詰まっている。苦しみ、傷つきながら、偽りなく心の中を吐露している。
年齢がかもし出す落ち着きも加わり、誠実で知的な独白だ。

原題はDolce per se 
何となく、「いとおしいもの」という感じがとても出ている。
作者ダーチャ・マライーニは、日本と絆のある人。作品中に十二支や仏教の僧侶が出てきたし、日本で生れた妹は日本の名前を持っている。

訳がまた、素晴らしくて感激。言葉に対する作者のデリケートなこだわりを大切にして、しかもとても文学的だった。
<040407>






光草 ストラリスコ   ロベルト・ピウミーニ  長野 徹・訳

トルコでのお話。
絵かきのサクマットは、ある領主のひとり息子マドゥレール少年の部屋の壁に絵を描くよう頼まれた。マドゥレールは光にあたることのできない病のため。外の世界と触れ合うことができない。いつも屋敷の奥で暮らしていたが、明るい、素直な子供だった。
サクマットはマドゥレールと真の友達になることを心がけ、すべての時間と力をマドゥレールの部屋に壁画を描く事にかたむけた。
二人は語り合いながら、物語を作りながら、少しづつ白く広い壁を絵の具で埋めていったのだ。最初はサクマットだけが描いていたが、そのうちマドゥレールも絵筆を持つようになる。

山並み、畑、道をたどれば村。広がる平原を行く幌馬車、川には橋がかかり、人も描かれた。人には名前もあってすべてのものにお話があるのだ。
城壁が描かれそこには王子と王女の物語もあった。
水平線が長く長く繋がっていた、それはマドゥレールが見たことがない海の絵だった。
草原は春を迎えた明るさに満ちていて、一面に花が咲き緑も空も風も感じられる。マドゥレールが注意深く描いたのはこの草原に遊ぶ蝶だったのだ。そして草原に広がるのはマドゥレールのイメージが作り出した光る植物だった。

目をキラキラさせて嬉しそうなマドゥレールだったが、その間もたびたび発作に悩まされ、病状はだんだん悪くなってゆき、それに沿うように絵も変わって行く。この下りが最も胸を打つ部分だと思う。マドゥレールの語る物語は次第にその勢いをなくしてゆくが、それなりの美しいバランスを保っているのだ。ここはちょっと涙。

描かれた絵には、実生活に大きな制限のあるマドゥレール少年の人生が凝縮されていて、限りある壁面が想像力で無限に広がっていた。
人生を見つめる冷静な目は痛々しいが、その正確な理解にはっとさせられた。病身ゆえか敏感に人生の流れを察する利発な少年はあくまでも無心だけれど、普段あえて目を向けていないことをちゃんと見る機会を、私達にくれているのかもしれない。

作業の中で、サクマットの人生観は大きく変化する。
マドゥレールが息を引き取ったあと、サクマットは故郷へ帰ったが、もう二度と絵を描くことはなかった。

小峰書房
<040407>




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