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海を見たことがなかった少年
抱擁 T・U
ひとたびはポプラに臥す 1〜6
本格小説 上・下

遠い山なみの光
ゲイルズバーグの春を愛す
宮殿泥棒
晴子情歌 上・下
緋色の記憶
ダロウェイ夫人






ダロウェイ夫人    ヴァージニア・ウルフ  富田 彬・訳 

「名作ながら難解」のイメージがあったこの作品、確かに難解。でも十分に味わい、理解は出来なかったと判っていても、私なりには楽しむことが出来たといえる。 

眠りながら読んでいるような気分になることがある、いつのまにか主語が判らなくなっていて、そこを後戻りせず読み進めながら判って行く、穏やかな波に乗って、とめどもなく続くおしゃべりを聴いているような調子だった。
同意や意見を求められることなく、やかましくもないおしゃべりのようだった。 

向かいの家の老婦人の廻りに流れる時間を傍観しながら、そこから愛や宗教に思いを馳せる部分がとても好きだった、そこにはウルフ特有の思考回路がありそうだ。 

作品の草稿段階では、ダロウェイ夫人が自殺するという設定もあったとヴァージニア・ウルフは書いています。重要な登場人物セプティマスはある意味クラリッサの分身だという事が、私には読み切れなかったことがそれを知ってわかりました。要再読!でしょうか?
<030618>
 



緋色の記憶   トマス・H・クック  鴻巣友季子・訳

老弁護士が子供の頃(1926年)に起きた出来事を回想する形で、ある事件を語ります。
何があったんだろう?
どんな事件だったのだろう?
それは悲劇だったらしい、恐ろしいことが起こったらしい…
だんだんと読者を引きずり込んでゆく。

これがクックの手法なのでしょう、なかなか全貌も詳細も見えてきません、が、所々に小さなヒントをちりばめながら、次第に事件は語られてゆきます。 

ところが正直言って、その結果、裁判が終わった段階で明らかにされた部分は、当時と違って現代社会にあってはそれほど驚くにあたりません。そう感じさせること自体が構成により読者の想像力をかき立てた結果だと思います。 

しかし、ここで終わっては作品にならない訳で、その後語られることこそが事件の衝撃的な部分でした。最後の2章にこの作品の見えない力が凝縮されているような気がしました。特に最終章のひとつのせりふには胸がつまり、涙。 

責めを負うべきはいったい誰だったのでしょう?
何がどんな風に人生を狂わせるかわからない、この村に起こったことは意思的な悪意など何も介在しない悲劇だったとしか言えないのです

導入の映像的な描写が魅力的でした。
<030531>
 


晴子情歌(上・下)   高村 薫

高村薫さんを初めて読んだのは「マークスの山」でした。作者が女性だとわかったのは読後のことで、失礼してしまったけれどとても驚いたことを憶えています。

今回の『晴子情歌』は最初から何か雰囲気が違っていて、あら?と思うふしもあったのですが、やはり読みすすめてみたら骨太でしっかりとした読み応えのある作品でした。線引きなんてあまり気にしませんが「純文学」って言うとしっくりするような感じです。 

全体が、晴子の手紙という形を取った呟きのような自分史と、手紙の受取り人である息子彰之の語りからなっていて、晴子の生きた昭和史が描かれていています。

晴子と同年代の読者にはまた別の感慨があると思うのですが、近代史というのはめまぐるしく、変化も激しく、当時を生きた人達の気持ちなど、読んで初めてやっと想像するくらい、今とは異質な物になりつつあるように思い、ここには大事なことが盛りこまれているとおもいました。 

母、晴子は手紙を使って言葉で語れる以上のことを語りかけ、伝える。息子、彰之はそれを彼のやり方で読み、受け取る。
二人の間に交わされる言葉ではない会話と理解。
母の来し方、自分のルーツ、昭和の歴史、母親と息子というのは普通の会話という方法でどれほど語り合えるものだろう。 

わたしが一番楽しんだのは、北海道初山別での活気ある生活でした。鰊御殿という言葉が今も残っていますが当時の繁栄ぶりが手に取るように描写されていて熱中しました。「働く」ことがそこにいるすべての人を幸せにするという高揚した雰囲気は本当に楽しかった。 

死に向かうとき、意識は余計なことを考えずにすむ…亡くなった夫が夢でそう教えてくれたと晴子が話す部分がありました。こんなところに作家が日頃考えていることが垣間見えるような気がするのは読書の楽しみのひとつだと思います。

晴子の彰之に宛てた最後の手紙は大変母らしい手紙で涙をさそい、それに続くエピローグも感動的でした。 

現在「日経新聞」に連載中の『新リア王』に榮、彰之といった『晴子情歌』の登場人物の名を見つけました。政治の社会を舞台に、作者は続編を執筆中のようです。
<030503>
 
 

宮殿泥棒  イーサン・ケイニン 柴田元幸・訳 

単行本はほぼ10年前に出ていたらしい、面白い本を知らずに来ていたと思う。その一方、個人的には10年前より今読んで正解、という気も。 

「人格は宿命である」この言葉、見えないふりして歩いていてもだんだん頭の隅に点滅し始めて、そのうち四六時中気になるようになり、時にそっちを正視して深くうなずいてしまうようになる。 

私は優等生ではないけれど、でも「平凡な人」という視点でこの主人公達の「どうしてこうなってしまうんだろう? でもこうとしかならないんだよナ」と思わず呟いてしまうような状態、気持ちは「ありがち、ありがち!」とイヤになってしまうくらいすんなりと受け入れられる。誇張やうそっぱちという印象がない。 

一所懸命で凡庸であることは人として一種立派なことなのに、ちょっとせつない。でも不器用で多少思惑がはずれがちな人生にもじんわりしみる幸せが確実にあって安らぎを覚える。 

主人公達の性格が良くて自然なことが全編に流れる心地良さだと思います。自分と違う人、自分より秀でた人目立つ人を妬んだり、自分を卑下したりせず生きている、後味の良い作品集でした。

変な言い方ですが信頼できそうな作家です、他の作品も読んでみたい。 

<030503>
 



ゲイルズバーグの春を愛す   ジャック・フィニィ  福島正実・訳

春だし…と思って積読本から取り出したこの本は、ノスタルジーの優しい部分を汲み上げている読後感の心地良いSF短篇集だった。

「その時のその場所」が「今のこの場所」と交差する、カギになるものはその時そこに関わる人の「気持ち」なのだという気がする。
表題作『ゲイルズバーグの春を愛す』にある印象的な一節、

「ゲイルズバーグの過去が現在を撃退しているのである。」(p.37)

手を打って共感する、あり得る気がしてそうあってほしい気もする、良い響き。

過程を順経てて読んでいるうちにすっかりその世界に入りこまされてしまう『クルーエット夫妻の家』には有無を言わせぬ説得力があるし、いたずらっぽい『大胆不敵な気球乗り』や『独房ファンタジア』も好きだった、共通するのは、夫妻の家も、独房の絵も、気球から見える景色も、文面を頼りに思わず頭の中で映像をよみがえらせようとしていたことだった。

最後の『愛の手紙』はまさしく「その時のその場所」と「今のこの場所」が時間を超えて交差する、せつないお話、愛の物語。

ちなみに私が読んだのはハヤカワ文庫ですが、カバーは内田善美さんの絵でした。「あ、こんなところに…」と思ったわけです。
<030415>
 




遠い山なみの光   カズオ イシグロ  小野寺 健・訳

大切な舞台は日本、登場人物はほとんど日本人、国籍はともかく作者カズオ イシグロも日本人でありながら、この小説はいわゆる日本文学ではない。それはわかっていても、時折読みながら面白い感覚にとらわれる。

普段私達が翻訳物を読むとき、その舞台背景は外国のどこかの町であったり、どこかを想像させる場所だったりしますが、今回ほどその場所を意識したことは珍しかったように思います。
戦後まもない長崎。
原爆を体験したことで記憶される長崎は、原書でこの作品を読む外国の読者にはどんな風にうつるだろう。

ある時期の思い出を淡々と綴る手法で、過去も今も、そしてこれからも「生かされるままに生きる」という印象を受ける悦子。
日本で万里子を見送るシーンが心に残る、最終章では娘ニキを見送る。また、上の娘景子はその自殺で失っている。
常に受け身で傍観者のように見える悦子だが、過去に一度「日本を去る」という決断をしたことは、多くは語られていない彼女の意志だった。その決断から生じた不幸は、ただ運命のように与えられる試練よりずっと重く感じられるはずで切ない。

「…、フェリーで稲佐へ渡った。」(p.144)というフレーズがある、全体に暗いトーンの作品の中では開放的な明るい部分だ。
去年訪ねたのですが稲佐山は、今では橋とケーブルカーで登る、長崎全体を見渡すには絶好の場所でした。「あそこがグラバー園、あの辺に出島、こっちは造船所…」いろいろ見るうちに、あのあたりが爆心地だったのだと目をこらすと平和公園と平和の像が見える、そういうところでした。

巻末で訳者あとがきに加え、池澤夏樹さんのすばらしい解説が読めるので、文庫(ハヤカワepi)がお勧めです。
静かで情緒的な作品でした、折に触れ繰り返し読みたい一冊です。
<030325>





本格小説(上・下)   水村美苗

朝日新聞紙上で作者が辻邦生さんと交わしていた往復書簡は何度か読んだことがありましたが、文学の香り高い知的なやり取りだったという印象で、作家同士はこういう会話を楽しむものなのかと思ったものでした。

読みすすめているうちに、題名の『本格小説』の意味がわかってきた、と思える瞬間がありました。
「確かにこれは本格小説だ、これが本当に小説であるならば…」ふとそう思ったときでした。
長い長い導入部分を経て始まった小説の語り口は、まるで個人的にすぐ目の前で語られているかのように、あまりにも自然であり、身近かに感じられるものでもあり、全編を通してほぼ一気に読む結果になりました。

純粋にストーリーが面白いし、主なる語り手の人生が大きくこの物語と関わっている点が、終盤になってぐっと作品を引き締める効果をうみました。
第三者的立場の祐介の体験を読者は疑似体験する構成になっていて、それも読者を惹き付けるのだと思います。
とにかくとにかく、途中でやめられなくなる本でした。
<030311>





ひとたびはポプラに臥す(1〜6)   宮本 輝


今から1700年の昔、シルクロードの亀茲国(きじこく、現在の新彊ウイグル自治区)に生まれ、仏教の流布に欠くことの出来ない偉業をなした鳩摩羅什(くまらじゅう)という人の足跡を追ってシルクロードを旅することが、著者の20年来の夢だった。

「そのために生まれた」。そうとしか思えない人間が、たしかにいる……。(6巻p.134)

宮本 輝さんも小説を書く為に生まれた、「そのために生まれた」人の一人だと私は思うのですが、その著者が魅せられつづけたその旅を、ついに実現する機会を得て旅立ちました。
中国の西安からパキスタンのイスラマバードまでの40日に及ぶ旅、その総距離は6700km。

中国の、砂漠の、とてつもない広大さを何度となく思い知らされます。過酷な旅を続けていながら、鳩摩羅什については殆ど詳しいことがわからない。でも著者は夢がかなったことに満足しながら、鳩摩羅什の足跡をたどり、同時にシルクロードを体験して行きます。
長い旅の間にいろいろな思いが浮かび、頭を駆け巡る、その時その場所でなくては考え及ばない思いもあるし、旅の途中のある場所に立てばこそよみがえる記憶もあって、その時々の思いを綴っています。
生と死についてをはじめとして、著者の考え方なども伝わってきて、単なる「紀行文」とは片付けられないとても豊かな内容でした。

この旅は一行の雰囲気もメンバーも良くって、まるで一緒に旅をさせてもらっているような気分になれました。中でも通訳のフーミンちゃんのキャラクターとその描き方は最高です。
それから彼等が毎日のように食べ続けた大盆鶏(ターパンツイー)とトマトの卵いため、すっかり私も食べたような気にさせられましたが、いったいどんなお味なのでしょう、興味がわきます。

感動を覚える個所はいくつもあって、その度に私は今の自分をふりかえりました。
「どこから来て、どこへ行くのか」
シルクロードはそんなことを思わせる場所なのだと思います。
<030307>




抱擁 T・U  A・S・バイアット 
           栗原行雄・訳 小野正和/太原千佳子・訳詩

引越しで、荷物を片付けていたとき1997年の手帳にこう書いていたのを偶然見つけた。

  抱擁 T・U  A・S・バイアット 
  栗原行雄/訳 太原千佳子/訳詩 
  新潮社  
  文庫化を期待


去年の暮れに文庫化されたこの本に再会していましたが、実はメモのことは忘れていました。(訳詩者名を一人しか書いていないのはどうしてだったのだろう?)
でも、5年前に読みたいと思っていたのかと思うと、少し複雑。もっと早く読んでおけば良かった、もしかしたら今年のベスト1をもう読んでしまったのかもしれないと思うほど圧倒的によかったのです。

中味が濃い、充実しています。設定やストーリーの面白さはさることながら、背景にある作者の膨大な知識が小説に無限大の可能性を持たせています。
ミステリータッチの小説を読んでいるかと思えば、文学の論文をひもといているような、一見矛盾しそうな多彩な面が見事に混ざり合って共存しています。
もっと私が時代、文学論、作家論などに明るかったら、きっと何倍も楽しむことが出来たのですが、それには限りがあって残念。

昔は作家や詩人のあり方が小説や詩を創るというだけでなく、もっと大きく捉えられていたようで、その興味は生物学、海洋学から霊的現象に至るまで幅広く、そういったものもバックグラウンドとして織り込まれています。

私は書簡に弱いです、手紙の語りに「力」を感じるタイプです。この小説には往復書簡に加えて日記、詩、そして遺書まで使われていて、どれも美文でした、翻訳も素晴らしいと思います。

19世紀の大詩人ランドルフ・アッシュの研究者ローランドが、大英図書館でアッシュ直筆の手紙をみつけた。恋文の下書きと思われるこの手紙は誰に宛てて書かれたものだったのか?
ヴィクトリア朝の時代に生きていた詩人たちの謎に、20世紀を生きているローランドたちがせまって行く。死者が生前知り得なかったことを、後世の人が発見して行く不思議があれば、どこまでも永遠に眠り続ける真実も…2組の恋人たちにそれぞれの恋愛がありました、甘美。

あとは映画の封切りを待つばかり。
<030217>





海を見たことがなかった少年 モンドほか子供達の物語  
ル・クレジオ  豊崎光一/佐藤領時・訳  

子供を主人公とした短編8作からなる。
表題作「海を見たことがなかった少年」はシンドバッドの冒険に魅せられ海に憧れるダニエルが主人公だ。純粋に求めるこころ、わき目もふらずそれと一体になるほど求める心。

全般に、理屈にとらわれない未知の力、大人の常識でははかりしれない秘められた能力、辛いことを苦と認識せず、爽やかに乗り越えて行く原動力、そんな面を捉えて作者は人間を上回った神に近い存在として、子供を描いているような気がする。
いつのまにか過ぎて行く、子供という時代のきらめきとか可能性を神秘的なものとして大切に思っているのだ。

「児童神の山」が印象深い。子供は大人の目の届かないところででも何かを体験し、成長して行く。それが孤独な瞬間でも、そんなこと気にもとめていないのだ。
好きなのは最初の作品、ある風光明媚な街を風のように吹きぬけて去っていった少年を描いた「モンド」は一番だった。ここでも子供の目を通して真実を見せていた。たとえば孤独を強く感じるのは広くてさびしい浜辺や公園よりもむしろ街の雑踏の中かもしれない、そんなことを子供に体験させているのをおとなの私が読むわけで、不憫で切なさは倍増、効果満点。
アルファベットを教えてくれた老人とモンドのやりとりが最高だ、老人のさりげない本物の優しさが少年の真白な心に刻まれて行くようだった。
<030124>




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