-6- 

理由
リオノーラの肖像
嵐が丘
魔術はささやく
西の魔女が死んだ
愛のゆくえ
将棋の子
スローターハウス5
聖の青春
イタリアからの手紙





イタリアからの手紙   塩野七生

最初の章を読んでいて、「読んだ憶えがある」と感じた、ある予感…。
でも読み進めるうちに不安は去った、「冒頭の部分だけをどこかで読んだのだろう」と思いなおした。
ところが『骸骨寺』も知っている、予感…。でもどこかのガイドブックで読んだのだったかな、と再度思いなおした。

『永遠の都』で面白いと思った、でも全体にどの章もエッセーというには物足りない。若い頃の作品だそうだけれど、書き手の人柄の方が主張するとその性格が多少高慢なところがあって気になってしまう。でもさすがイタリアを書く大御所だ、その片鱗は充分見えた、調べは相当なもの。

実は途中で読みものとして退屈になってきて、読むのを止めようかと思ったが、最後まで読んで良かった。『シチリア』と『マフィア』がすごく良かったからだ。特に『マフィア』は読ませてくれます、迫力がありました。

本をしまおうと本棚を見てどっと疲れた、果してそこには昔に買った『イタリアからの手紙』があるではないか。   
前回は最後まで読まなくってごめんなさい。
<030919>





聖の青春    大崎善生 

病弱なハンディを負いながら、名人を夢見てA級八段までのぼりつめた棋士、村上 聖(さとし)さんは1998年8月8日亡くなった。

彼が健康なからだであったら、どれほどの棋士になったことだろうと思うのは詮無いことだけれど、病身だからこそここまで集中したのだとは私には思えない。彼にハンディが無かったら必ずやもっとすばらしい結果が生れ、彼の夢は叶っていただろうと思うからこそ、その早過ぎる死が残念でなりません。

 彼の29年の人生がえがかれているのがこの本です。
ネフローゼという病気にはストレスが大敵だということを思えば、試合ごとに心身をすり減らし、疲労困憊まで消耗する棋士の世界はあまりにも過酷です。

でも、聖はすばらしい師匠にめぐり合った。森信雄六段との出会いほど大きな幸せは誰にでも起こることではありません。 

「飯、ちゃんと食うとるか?」

人間とのというよりもむしろ犬の親子のような愛情の交歓…

 師匠は勿論師匠であり、しかし同時に父であり、兄であり、心から聖を暖かく見守ってくれた存在だった。そもそもこの師匠なくして聖の棋士人生は開かれなかったかもしれず、この二人の師弟関係は感動的でした。

名人にこだわり続けた聖。
病院のベッドの上で将棋の本をよみふける幼い頃の聖。
負けることは死ぬこととすら思っていた聖。
将棋の為にならない治療を拒み続けた聖。
身のまわりのことに頓着のなかった聖。
感情のままに両親に甘え、わがままを言った聖。
アパートの玄関前で倒込み、見知らぬ人に対局場へ運んでもらった聖。
本当は早く名人になって将棋をやめたいと思っていた聖。

 いろんな聖が描かれていました、どれも力いっぱい生きていた『聖の青春』
でした。
<030916>



スローターハウス5    カート・ヴォネガット・ジュニア  伊藤典夫・訳

 書きたい、書かなくてはならない、しかし書けない。その葛藤の結果を読ませてもらった、と読み終えて思った。

 主人公が超時間、超空間のような体験をするのを、私は頭の中のフラッシュバックとして読みました。SFは慣れないので、自分流に解釈してしまったわけですが、神経をずたずたにされながらも、何かにつけて思い出す、人生から切り離すことができないすさまじい体験がどーんと横たわっていました。

7年くらい前に私はドレスデンを訪ね、たしかに街には至るところにまだ戦争の傷跡が残っていたのは印象的でした。第二次世界大戦末期、日本が東京大空襲や原爆を経験した時期に、ドイツも連合軍の攻撃を受けていたわけです。でもそのあと社会主義体制に置かれていたドレスデンでは戦後の復興がまだまだだったわけで、私が見た廃墟のままの建物は50年も前の空襲で被害を受けたものだったわけです。
正直言って、私はその時それがわかっていませんでした。ただあの崩れそうな教会、再建の資金カンパなどが忘れられず、この本を手に取ったのだと思います。

 ヴォネガットはアメリカ人でありながら、その空襲を被害者として体験しているというのがすごいことです。捕虜が多数いるところを攻撃するのですから、戦争もここまで来るともう…。その地獄で生きのびたとしたら、これも私の解釈ですけれど、多少精神を病んでも人としてあたりまえ、 現実逃避のような症状も肯けます。

 人を含めてほとんどが死に絶え、廃墟となった街に、木々が芽吹き小鳥がさえずる。「そういうものだ。」という言葉が聞えてくるようだ。

「そういうものだ。」so it goes.
到底受け入れられないものを負わされてしまった人の口癖が悲しい。
<030902>




将棋の子    大崎善生 

今日は一日家にいられる日と思いながら、今朝手に取ったのは夏休みに会った友人が貸してくれたこの本だった。
プロローグを読んだだけで胸が痛くなった、やめられなくてその後一気読み。

将棋についてはそのゲームのいろはすら知りません、ましてやその世界のことなど何も。それでも読める本でした、すっかり泣かされてしまいましたね。

将棋の世界では三段と四段とではまるでその立場が違います。四段からがプロの棋士と認められ、プロになるには奨励会という会に所属して過酷な条件をクリアしながら三段リーグとよばれる競争を勝ち抜かなくてはなりません。そこにさまざまな物語があるのです。 

本書では実名で棋士や奨励会員が登場します、さすがの私も羽生善治さんは知っていました。彼の達成した偉業や彼の存在自体のすごさもこの本で初めてわかったのですが、この本の主人公達は、奨励会を勝ちぬいて行った棋士たちではありません。三段リーグの壁の前に夢を打ち砕かれ、失意の中に志したい世界から去っていった人達、とりわけ著者と古くからの縁のあった成田英二さんという人です。

彼の物語は重たかった。 

奨励会とは…棋士になるための修業の場であり、同時に淘汰の場でもある。 

現実は厳しくて、悲劇を生みます。主人公の人となりが明るくて救われるけれど、純粋な分余計に見ているほうは辛いですね。

天才の中の天才しか棋士になれない環境で奨励会員はしのぎを削って行くわけですが、勝つしか道がないというのはどんなに追い詰められた状態か、思っただけで苦しくなります。でも戦っている間はまだ良い、自分の才能に賭け夢に挑戦しているのだし、将棋をさすことは好きなことのはずです。辛いのはその夢をあきらめなければならないとき。
主人公はずっと自分を支えてくれて、夢を共有してくれた病身の母と最後の旅行をして、奨励会をやめたことを隠しきれずに告げました。申し訳なくて、ふがいなくて、こんなに辛いことって…

著者は将棋連盟に席を置き、将棋雑誌の編集長という立場で奨励会を去っていった数々の不出の天才達をたくさん見てきました。その職を自ら10年と定年を決め勤め上げてから彼らのことをこの本に著したようです。他の人がなかなか書けなかった内容なのですね。

知らない世界を垣間見、その厳しさを認識したり驚愕したりの一日でした。
そして結構びしょびしょ泣きました。
<030819>



愛のゆくえ    リチャード・ブローティガン   青木日出夫・訳 

献辞 

フランク 

なかに入って―
 本でも読んでいてくれ―
 それは居間の
 テーブルの上にある。
ぼくはニ時間
 ほどで
 戻って来る
        リチャード

 

始まる前にこう書かれている、なんて気持ち良く迎え入れてくれるんだろう。
そう、ちょうど2時間ほどで読める1冊なのだ、そして読後には夢から覚めた時のような気持ちにさせてもらった。

彼は図書館に住んでいる、面白い図書館だ。本はあるが借りるものではない、作者が預けに来る一方なのだ。そして人々は自らの本を書棚の好きなところに置いて行くことができる、このやさしさが素晴らしい。 

孤独な彼は、図書館へやってくる人々に思いやりを持って接し、その人生をねぎらいながら同時に人々によって癒されている。
独白、呟き、話してしまいたい、聞いて欲しいけれどでもそれは誰でも良いわけではない、話してしまって後悔はしたくはない、大事にしまってもおきたい。人生は物語、人はそれぞれひとつづつ物語を綴る。

 かつて彼もこの図書館に本を持ってきた、今はその図書館の館長だ、そこに住み、24時間休みなく持ちこまれる本を受け付けている、それも来訪者にとって最高の対応を心がけて。

 ある日、心の叫びを持って訪ねてきたのはヴァイダという美しい女性だった。ヴァイダはその美しすぎる姿態に悩まされ、憎んですらいる女性、悩みというのは聞いてみないとわからないものだけれど、彼女の悩みは深刻だった。

二人は恋に落ちる。
ヴァイダのやすらいでいる姿はまた格別に美しい。
お話はこれから始まるのだけれど、全体にただよう心地良さはこのあたりに集約されている。

ブローティガンは初めての作家です。この本を見る限り、ある意味ファンタジーのようであり、社会のシビアな部分をあっさりと切り取って表現してもいる、その辺が作者らしさなのかもしれない。
この図書館をブローティガンは密かに病院と呼んでいる、なるほど。

 ヴァイダがおいしいコーヒーを入れているシーンが印象に残っている、コーヒーがいくつかの場面でエッセンスのように登場しているのが嬉しかった。<030811>

 

西の魔女が死んだ      梨木香歩 

児童文学を前にして、読み方が不自然になっている私に気がついておかしかった。この言葉には別にもっと違う意味合いがあるんだろうかと思ったり、何か教訓めいたものを探り出そうとする私がどこかにいる。まるで外国語の文を読んでいるときのように、読み方に私の知らない常識がありそうでそれに自信がないらしいのだ。
でも、最終的には素直に読みましたよ、魔女になる修行に思いを馳せながら。

主人公まいのおばあちゃんの生活ぶりは古くて新しい。
おばあちゃんは、そしてその生き方は、筋が通って、潔く、愛情にあふれ、自然で、そして優雅だった。
まいはおばあちゃんの家で、魔女になる修行を始めた、実はおばあちゃんは魔女の血をひいているというのだ。 

ジャムを手作りして保存ビンに詰めて行く、毎日自給の卵を朝食にいただく、庭の植物の(虫よけの)為にミントティーを用意する、規則正しい生活をする。
満ち足りた時間の中で実現できる気持ちのゆとりは何にも変えがたい。
キンレンカの葉が食べられるなんて知らなかったし、ラベンダーの木の上でシーツを干すなんてこと考えたこともありませんでした。

 魂と身体のことをおばあちゃんが語ったところが大好きです、永遠の魂が身体に宿って経験をつんで成長するというのです。

最後の3ページの感動はいやもおうもありません。
中学時代の仲良しが「どっちかが死んだら足の裏をくすぐりに行くというのはどう?」と提案したことがあったのを思い出しました。私はあの時恐ろしかった、絶対に止めてと断ってしまったけれど、随分長い間足を出して眠れなかったのを憶えています。
いまでは何か合図をおくってほしいと願う魂がありますけれどね。

文庫本には他にもう一篇、まいのその後のお話が入っていて、そこには心を鍛えつつある、ゆったりとしたまいの姿があり、多少魔女の風格を備えているようです。まいも努力次第で立派な魔女になれるかも知れない、そして読者も同様に。
<030804>




魔術はささやく      宮部みゆき

3冊目の宮部さん。
宮部作品は登場人物が生き生きしている、元気があるという意味ではなく、存在が自然、一人一人に生活感があるとでもいおうか。会話の部分にカギがありそうだ、自然な台詞はなかなか書けるものではない、その辺も上手な書き手なんだと思う。

 父の事件、家族、友達関係、じいちゃんに教わったこと、三人の女性の死、仕事先の人達、サブミナル効果、催眠、叔父の事故、母の苦労、真実、良心、…プロットがたくさんだ。念がいっています。

 最終章で少年は不安を払いのけた、これで彼は自分の力で、自分の判断で生きて行くことが出来るに違いない。
主人公の守くんは、出来すぎるほどできた良い少年だった、難をいえばこの年で分別も行動力もありすぎる、でも魅力的な主人公だった。
<030731>




嵐が丘    エミリー・ブロンテ  鴻巣友季子・訳

新しく翻訳された『嵐が丘』を体験しました。昔読んだのは高校生のときだったけれど今回ほどに味わったとはいえません、正直言ってあまり好きになれなかったのだと思います。ドロドロ加減に辟易、復讐劇に嫌悪、幽霊は嫌い、そんなところだったと思います。でも再読の機会を得て、これはやっぱりただものではない、名作の力を体感できました。

説明しきれない魔力が漂っているような、有無を言わさぬ『嵐が丘』の世界が存在しています。説明しきれません、その世界に引きずり込まれたというか圧倒されたというか。
 一方、「いくらなんでもこんなことはなかろうや?」と、その狂気を(どっちかといえばもうついて行かれなくて)かなり客観的に読み進んでしまった感があります、のめりこんでは恐ろしいものがあります。

自らの復讐の達成に執りつかれるあまり、人の人生までも狂わせるヒースクリフの激しさは、つきつめてみればキャサリンへの一途な思いだった。
例えばヘアトンを「道路の敷石に使われてしまった黄金」のように扱ったりするのは願い下げだけれど、キャサリンの亡霊に微笑みかけながら死んで行く様子は、このすごみはなかなか圧巻、ある意味人生をまっとうしているではないのか。

 キャサリン(娘)とヘアトンの二人の純粋さはとてもチャーミング、そして物語の生き証人ネリーは分別のあるなくてはならぬ登場人物ですね、この人達がいてくれて本当に良かった()

翻訳者鴻巣友季子さんの今回の翻訳にまつわる苦労話などのエッセイを数本読みました。そこに出てきた個所などを思い出しながらの読書、こんな経験もなかなかできません。新訳をどうもありがとう! 

最後の150ページくらいを例の(『抱擁』を最後まで読ませてもらった)スターバックスで読みましたね、冷房で身体が冷え切っちゃったけれど、あの雑踏の中が良い雰囲気で一人になりきれる場所でした。
<030725>
 

 



リオノーラの肖像  ロバート・ゴダード  加地美知子・訳

 夫を亡くしたリオノーラは、ある日娘ピネロピを伴ってある地を尋ね、長い物語を語り始めた。我が来し方、母のこと、父のこと、また父の戦友だった人のこと、かつて起こった殺人事件の真相など、かつてずっと口を閉ざしていたリオノーラが、いまやっとそれらを語る時が来たのだった。

まず不幸だった少女時代の話が始まった時、実は私はこの小説が「継子いじめ譚」ならかなわないなぁと思ったけれど、全然そんな話ではなくって本当にほっとしました。

 人の一生分の年月をかけて、解き明かされてゆく過去の出来事、これは壮大なミステリーだ。重くなりそうな内容なのに読後感はどちらかと言うと爽快、「よいものを読ませてもらった」という感じです。

 登場人物が全体に善い人たちなのだ。悪を代表する意地悪なオリヴィアですら、どこか哀れさを漂わせ悪人になりきっていない、描き方が甘いのかも知れない。反対に永遠に賢明、貞淑で健気なリオノーラ(母)の描写にしても、今ひとつはっきりしなくて物足りなさを感じる。あまり個性をはっきり浮きたたせないのが作者の作風なのか、1冊目のゴダードなのでわかりません。でも、ストーリーの複雑さで充分楽しませてもらったのだから、そんな注文は呑みこみましょう。

 原題 “In Pale Battalions” は巻頭にかかげられた詩からとられています。「青白い隊列」とは戦死した亡霊たちの隊列であり、この小説は第1次世界大戦の戦死者達を弔いながら、反戦を訴える作品です。

もうひとつ印象的な詩の一部を忘れるわけにいきません。

生きていた間ずっと、私はあまりにも遠くにいた。
そして、手も振らずに溺れていった。

 ゴダードは、この2行からこの長編をつむぎだしたのでしょうか?
素晴らしい符合でした。
 <030712>
 

 

 

理由        宮部 みゆき

 プロローグの最後にこうある。 

事件はなぜ起こったのか。
殺されたのは「誰」で、「誰」が殺人者であったのか。
そして、事件の前に何があり、後に何が残ったのか。 

真中の1行が気になる、どういう意味なのだろう?そう思いながら読み始めた。 

ある、高層マンションの一室で起きた殺人事件に関わった人々を、インタビューという形で追い、全体がそのルポルタージュという体裁で書かれている。

関わったといっても当事者であるとか、目撃者であるというばかりでなく、被害者や容疑者の家族といった人々で、その語りにストーリーがある。被害者や犯人の生活や事件の背景がみえてくる。この事件が起きた「理由」がだんだんとわかってくる。

 不動産の競売の仕組みや、そこに起こり易い問題点など良く調べてあるし、説明も完結明瞭で、妙な言い方ですが勉強になりました。

 これほどの長編、飽きずに読ませてくれるのだからすごい、さすが宮部さん、おもしろかったです。

 ふと思うのは、実社会で日々報道される現実の事件にも、ひとつひとつ語られていない事情や思いというものがあるのだろうな、ということでした。<030629>
 



inserted by FC2 system