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モンテ・フェルモの丘の家
阿弥陀堂だより
動機






動機  横山秀夫

表題作「動機」、警察署内で大量の警察手帳が紛失。誰がなぜ?
電話で殺人の依頼を受けた元殺人犯「逆転の夏」
地方紙の事件記者真知子には地裁にネタを提供してくれる人物がいた「ネタ元」
裁判中の法廷で裁判長が居眠りをした「密室の人」

表題作に限らず全て「動機」がテーマになっている。あ、でもミステリーってそういうものですね、と言うことは表題作の題名はもうそれ自体が傑作なのかもしれません。四作とも粒ぞろいだと思いました、面白かったです。

敢えて言えば「逆転の夏」の印象が強いけれど僅差です。一つの事件が多方面に、又は多くの人に複雑に影響し、被害者にはもちろん、加害者にも長く影をおとす。

「密室の人」で裁判長に起こった個人的な事件は、ちょっとしたコメディとも思える。弁護士、検事など司法関係者の中で最もエリートが選ばれる裁判官の日常というのは多分にミステリアスです。法廷内では世間に蔓延している各情報に惑わされることなく、法にのっとった裁定をし、しかも世間の常識から外れない判断力も要求される途方もない仕事。「私」の部分をコントロールするのも容易ではない。

作者は上毛新聞の記者からフリーライターを経て、ノンフィクション作家そして作家となられたそうで、経験が「ネタ元」には反映しているのでしょうか、新聞記者の筆致はミステリーに向いているのかも、これからの作品も楽しみに待ちたいです。
<021219>





阿弥陀堂だより   南木佳士

しみじみとした、味わい深い小説でありました。
この、「ありました」というのが、阿弥陀堂を守っている"おうめ婆さん"の言葉遣いで、大変に印象的、味わいの一つです。

病を得た人は一種世の中の弱者といえます、生きることの苦しさや生命のはかなさを日常的に感じ、死の恐怖に敏感になり、それは大きなハンディです。
心身ともに疲れ果て壊れかけた心が次第に癒されて行く過程、自然、休息、人の思いやり、平穏な日常、祈り、時間、さまざまな要因によりやがて内から力が沸いてくる様子など、医者であり、患者でもあった作者の体験が大きく反映されている作品でした。

おうめ婆さんは集落のご先祖さまたちの霊を、この阿弥陀堂で守っている。先祖の霊は山にいる、古い霊ほど山の奥にいる、そして集落の人達は大事な役割を果たしてくれているおうめ婆さんを山の人だと認識しています。
山と里のつなぎ目で、阿弥陀堂をひとりで守っている老婆の姿は悲しくて、尊かった。

映画が封切られていて、キャストもわかっているので、どうしても登場人物をそれと重ね合わせて読んでしまいましたが、特別違和感はありませんでした、映画の阿弥陀堂は私のイメージよりはだいぶ立派そうだとは思いますけれど。
他の作品も読んでみたいと思います
<021210>




モンテ・フェルモの丘の家  ナタリア・ギンズブルグ  須賀敦子・訳

全編が書簡だけで綴られています。
主人公ジョゼッペと彼を取り巻く人々、兄、兄嫁、息子、友人達、彼らの人生は或る時、同じ空間で交差していた。読み終わってそんな風に思いました。ある時間を共有した仲間達の、その象徴がモンテ・フェルモの丘にあった家だったのです。

それぞれの間を行きかう手紙を何十通も読んでいるうちに、登場人物達の日常や、考えていることが見えて来て、愛着を感じるようになりました。実際にはこんな手紙を送りあう相手はなかなか得られないとは思うけれど、手紙でストーリーを綴る手法は、味わいがあります。
手紙は特別な思いが伝わる手段だと感じます。文中にも
「時間と空間を必要とする大事なことを話すのに、電話は不適当だ」(p.65)
という一節があり、作者の手紙に対する思いを垣間見たように思いました。

血縁関係の家族ではなく、他人同士から出来あがっている、新しい形の家族というのが、最近言われるようになっています。ここに出て来る仲間達にそれに近いものを感じます。一緒に住んでいるわけでも、しょっちゅう連絡しあっているわけでもないけれど、ただ友達というより家族という言葉の方がしっくり来るような。

そして人には、さほど変わらない毎日を繰り返している時期と、人生の過渡期、変化の大きい時期があるかと思うのですが、この物語の中にはなだらかだったり、急激だったりするそれぞれの過渡期が交錯していました。

時は移ろい、「モンテ・フェルモの丘の家」でのあの時間はもう戻っては来ないけれど、
「再会してわるい理由はなにもありません」(p.320)
その相手は、死ぬほど会いたくて、同時に会いたくない気がする人なのです。余韻を残すラスト、また、愛読書が増えました
<021130>



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