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チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷
ある家族の会話
ボルジア家の黄金の血
背教者ユリアヌス(上・中・下)
ウィーンの辻音楽師
時計を巻きにきた少女
死霊の恋 ポンペイ夜話 他3篇
心地よく秘密めいたところ
水晶・みかげ石・喬木林
森ゆく人
ナレンブルク






ナレンブルク−運命に弄ばれた人々の城−  
                 アーダルベルト・シュティフター  竹内康夫・訳

森に入り、石と花と風と星を調べる旅人は、ある村の森の中に廃墟となった城を見つける。ところが、旅人としてやってきたその若者は、なぜか城に飾られた相続人達の肖像画に共通した面影を持っていた。
死んだと思われていたある相続人の一人ユーリウスは、実は異国で子孫を残していたのだ。旅人ハインリヒはユーリウスの末裔で、この古城ローテシュタイン城を相続する資格を持った男だった。

風変わりな旅人が実は城主の末裔であったり、その男が美しい娘と恋に落ちたり。生き生きと民衆が描かれる一方、異国から嫁いだ花嫁の哀しい話も挿入されている。内容は伝承文学、説話文学によく見られるようなおとぎ話で、いままで読んだシュティフターの作品と比べると多少異質なイメージだった。

廃墟の城内描写はおもしろい。森と同じように細かい観察眼が映像を見ているように語る。特に絵画の部屋に惹きこまれた。ルーベンス、ヴァン・ダイク、デューラー、絵はただ飾るだけでなく鑑賞する為に配置されているという、本当にあったなら見てみたい部屋だ。

原文はドイツ語かオーストリア語か、到底翻訳でないと読めないけれど、さほど古くない翻訳にもかかわらずかなり訳文は直訳風で、こう言ってはなんですが多分に文学的ではないのが残念。(ごめんなさい)
林道舎
<040328>





森ゆく人        シュティフター  松村 國隆・訳

良い本にめぐりあえました。忘れられない本になりそうです。
惜しむらくは絶版で手に入りません、古書店でも無理でしょうか?

森の番人の子供は、森ゆく人と呼ばれるゲオルクという男を、とうさんとも呼んで慕っている。ゲオルクは知らないことをたくさん教えてくれる、狭い世界に住んでいる少年にとってゲオルクは一種社会だった。

少年はゲオルクとずっと一緒にいたいと言うが、ゲオルクは人は巣立って行くものだと諭す。それが自然の法則なのだ、自然は後戻りする事はできない、森の木も植物も、そして人間も、生れ、育ち、枯れて行く。

ゲオルクは人生の終盤にさしかかっており、少年はこれから人生を切り開いて行く。いつまでも一緒にいることはできないのだ。
ゲオルクにも少年時代があった。第二章では静かにゲオルクの来し方が語られてゆく。凝縮された内容が、淡々とした筆で語られる。ゲオルクがどうして森ゆく人となったのか。

同時に第二章にはもう一つテーマがある。これはゲオルクの罪や後悔に繋がるもので、妻となったコローナの頑なな決断でもあった。
そして、その結果と共に哀しみの余韻を残して第三章は閉じられる。

麥書房 昭和62年4月1日発行 
<040325>






水晶・みかげ石・喬木林  シュティフター  望月市恵・訳

昔なつかしい装丁の本がうれしい。15cmと幾分広い幅は、繰ったページの落ち着きが良く、机上においても手に乗せても何となくゆったりとしている。
『喬木林』には繊細な挿し絵がついている、こういう本この頃減りました。
挿し絵はC.A.Amelang's Verlag, Leipzig 国松孝ニ氏所有によるそうです。


『水晶』
導入はある谷にある村クシャイトと、その周囲の山の情景。
高い山に隔てられ、外とほとんど触れ合わずに暮らす村人の生活は、昔とさほど変化することなく時を刻んでいる。山を越えれば向こうの谷にもやはり村があるが、その村ミルスドルフの谷はクシャイトのそれより広く、外との交流も盛んで、村自体も豊かなようだ。
クシャイトに住みミルスドルフに母方の祖父母を訪ねるため、この二つの村を行き来する幼い兄と妹を主人公に、物語は展開して行く。
吹雪きにみまわれ、道を失った兄妹が山で過ごした一夜には、山の神秘的な情景が語られている。子供達がどうなるのか心配しながらも、その美しさに心を奪われた。

『みかげ石』
この日少年は一つ大人に成った。
少年は油売りの老人のいたずらが原因で、母に叱られすっかりしょげていたが、人の立場にも立って物事を見られるようにと優しく諭すおじいさんと一緒に隣り村へ行って帰る間、村にまつわる昔話を聞く。
かつて人里離れた山の奥まで恐ろしいペストの嵐が忍び寄ってきた頃の話を通して、少年はきっと昨日とは違った目で周りのことが見られるようになったに違いない。
森の挿話に彩られた、少年時代を懐かしむ思い出話のような一篇。


『喬木林』
オーストリアの貴族の娘クラリサと異国の王子の悲恋物語といってしまったらそれきりだけれど、クラリサと妹のヨハンナが戦争を逃れて一時移り住む深い森の湖畔の様子が主役とも思える。山と森を知り尽くした作者だから描けるその描写は、まさにシュティフターの世界なのだと思う。

シュティフターの描く森は、何かを語ったりしない、静謐という言葉が良く似合う。
白水社 1965年
<040321>




心地よく秘密めいたところ    ピーター・S・ビーグル  山崎 淳・訳

ある食料品店の店先からボロニア・ソーセージを失敬してきた鴉(カラス)。そのソーセージをつかんだまま、あるところを目指して飛ぶカラス。興味を引く書き出しだ。
カラスはソーセージをある男に届けた。男、レベックは共同墓地に住みついている、もう19年来外に出ていない。ますます興味をひかれる。

墓地の霊廟に住む男。
夫の墓を訪れる女。
二人の死者。
墓地の雇われ管理人。
そして、主人公と社会をかろうじて繋いでくれているカラス。
ざっと、これが登場人物(?)。

葬られたばかりの死者は、その肉体から離れた魂が、しばらくあたりにとどまっていることがある。
普通の人間には彼らを見ることは出来ないが、墓地に住みついているレベックには彼らが見えるし、話も出来る。「半分あっち、半分こっち」の人間なのだ。
死者はだんだん、生きていた時の記憶をなくしてゆく、感情や感覚もなくなってきて、そしていつか(平均して4週間もすると)自分が生きていたことすら忘れてしまう。その狭間の不思議な空間、時間で静かに繰り広げられる物語。

モダンファンタジーというそうだ、おもしろい分野だった。
寡作の作家らしいが、ピーター・ビーグルはこの作品を19歳で発表したというのは驚きです。他の作品も是非読んでみたい。
<040311>






死霊の恋 ポンペイ夜話 他3篇 テオフィル・ゴーチエ 田辺貞之助・訳

妖しく、美しく、不思議な世界。
悲しく、恐ろしく、幻想的なストーリー。

5篇収録、正直言って最後の一篇(『オニュフリユス』)は受け容れられなかったが、あとはどれも好きです。

『死霊の恋』『ポンペイ夜話』『コーヒー沸かし』
青年が美女に魅せられ呪縛から逃れられなくなる。美女は吸血鬼であったり、2000年も昔の霊魂だったり、死者だったりするわけで、青年の方は身も心もすっかり翻弄されてしまうというパターン。怪奇小説というのになじみが無いので何ともいえないが、多分ゴーチェのそれはとても軽やかで上品だと思う。
霊とか死などの世界と現世の境目とは、何なのだろう。

『二人一役』は一番短い話ながら、鮮烈な一篇。

『ポンペイ夜話』で語られる、ポンペイの街の様子は、自身の旅の記憶に照らして興奮と共に味わった。私があの場所で、2000年前の人々に思いをはせたその時の気持ちがよみがえる。
<040305>







時計を巻きにきた少女    アン・タイラー  中野恵津子・訳

アン・タイラー2冊目、裏切られなかった。

大きな家に独り住いのエマーソン夫人。
夫をなくしたばかりで、子供達は7人もいるがなぜか実家に寄りつかない。居てもらわなくては困るというのに使用人ともうまく行かない。
でも、それでは相当の偏屈とか気むづかし屋かと言えばそうでもないのがかえって厄介だ。目に見えない問題が、この家庭にはあるのだ。

亡き夫はたくさんの振り子時計を残したが、夫人はそれら全部の時計の針をうまく合わせることが出来ない。これが、機能していないこの家庭の、バラバラの様子を表している。

主人公エリザベスは、とらえどころがないが魅力的な女の子だ。彼女は自分のかかえる問題を、自分のやり方でじっくりゆっくり解決して行くタイプ。
このエリザベスが、エマーソン家の振り子時計のねじを巻く。つまり、歯車が狂ったようなぎこちない家族の円滑油となり、末には欠くことのできない人物となって行く。

文中、エリザベスがある老人の看護をするシーンがある。老人のお世話をしながら、エリザベス自身が心の傷をいやし、自分を取り戻して行く様子が印象的だった。
アン・タイラーは看護の経験者に違いない、それも本当に心を傾けた愛情に裏打ちされた看護だったのだろう、とそう思う。看護を受ける老人の心や表情の描写は体験者にしか書けないと思った。すばらしい感性であり、観察力だ。

エマーソン家の大事な一員となったエリザベスは、しなやかに自然に生きる素敵な女性になっていた。彼女のかもし出す雰囲気がエマーソン家の人々には必要だったのだ。
<040303>







ウィーンの辻音楽師   グリルパルツァー   福田宏年・訳

主人公はワルツを弾いていても「ワルツを弾いてよ」とせがまれる、そういう力量のバイオリン弾き。名の知れた宮中顧問官の息子として生れながら、自らの人の良さと世間知らずが原因で騙されて、その安定を約束されていた将来をむざむざ棒に振っている老楽士だ。
社会的にはたから見ると落ちぶれた人生だが、彼は自分なりの音楽の世界に住んでいて、一向に世間一般の幸せのものさしに執着していない。清貧とはこういうことだろうか。
目立たず生きているこの老人の生活に興味を覚えた作家が問うに任せ、彼は過去の話をぼつぼつと話し始める。

後に作家は老人を再度訪ねるが、老人は悲しいが意志ある立派な人生を終えた後だった。

老人の人となりとその人生を、無理なく無駄なくこれだけの短篇に収めるなんて、すばらしい。

他にもう1篇、伝承実話にもとづく『ゼンドミールの修道院』は中世の色濃い、戯曲的作品。
<040221>





背教者ユリアヌス(上・中・下)   辻 邦生

あぁ、読み終えた後のこの幸福感はどうだろう。
本を閉じて大きく息をつく、あたりを忘れて読み耽っていた。

長編でありながら、朗々と詠われた美しい詩のようだ。

ユリアヌスはコンスタンティヌス大帝の甥、皇族として生を受けているが政治に興味や野心を持たず、ギリシャの詩文や哲学を愛する純粋な心を持った青年だった。でも、運命は彼を歴史の舞台へ否応もなくひっぱり出してしまう。
コンスタンティヌス大帝亡き後、皇帝となった従兄にあたるコンスタンティウスは、猜疑心からユリアヌスの父ユリウスの家系を皆殺しにしてしまうのだ。からくも命をながらえたのは幼いユリアヌスと兄の一人ガルスだけだった。
母バシリナはすでにユリアヌスが生れてすぐこの世を去っており、幽閉された身で孤独な寂しい少年時代、彼を慰めたのは、自然と書物だった。

その後兄ガルスはコンスタンティウスによって副帝となるが、結局は反逆者として殺されてしまう。ユリアヌスも同罪と見なされたが、后妃エウセビアのとりなしで命を助けられた。
学者の道を進むであろうという、本人や周囲の思惑に反して、結局ユリアヌスは副帝となり、意外なことに戦いの場で想像以上の手腕を見せ、まわりから皇帝へと押し上げられて行く。

ここに描かれているユリアヌスは勿論実在の人物ではあるけれど、多分に辻邦生さんの理想的人物像であることは間違いない。
宗教、生きる姿勢、人との関わり、信念、あらゆるところに辻さんが見える。
ユリアヌスの最後のシーンにある「なんという地上の美しさなのだろう」という台詞にはからだが震えるほど感動した。死を甘受し、「魂が地上を離れる」時は全てが美しく見えるというのは、純粋にひたすら人生をまっとうした人が言える言葉のはずだ。

意に反して治世にたずさわることになったユリアヌスが、学問で得た理想を実現しようとする、その誠実さがまた感動的だ。「正義を実現する政治はあるはずだ」と熱く語るユリアヌスが最後までその考えを貫いているところがすごい。

時は4世紀。キリスト教が広がりつつあり、コンスタンティヌス大帝がキリスト教を国教として認めていたことから、ギリシャの神々を信じるユリアヌスは後に背教者と呼ばれることになった。宮廷内にも国内の実力者の中にも政治を動かしたがる陰の勢力があって、そこには宗教的な争いも含まれているが、これは元来「八百万の神」を拝んでいて、現在も宗教にはそれほどとらわれていない日本人から見ると、充分に想像しきれないものがあるけれど、私個人としては自然を崇拝し、先祖をまつることが一番気持ちの良いことだと思う。

ユリアヌスは死の直前に現れた守護神が、黒いヴェールをしてうなだれていたのを何の暗示だろうかと冷静に見ていた。また、母バシリナは懐妊中に生れる子供の将来を夢に見る。(母を懐かしむユリアヌスに「母は、自分の赤子がローマ皇帝になることを知らなかった」と言わせているが、その微妙な符合がおもしろい。)
大事なところに暗示として夢や幻想が現れるのは作品的に効果的だった。

大作でありながら、文章といい、エピソードといい、隅々まで神経が行き届いた素晴らしい作品だった。
とにかく、辻 邦生さんの美文に酔いました。例えば二巻目の巻頭『皇后エウセビア』はこの章だけを取り出して読んでも成り立つと思います。ちょうどオペラのアリアや楽曲の間奏曲のようだ、と思うのです。
<040217>








ボルジア家の黄金の血     フランソワーズ・サガン 鷲見洋一訳

サガンが意外な作品を残している。
この本の成り立ちを解説で読んだところ、サガンはテレビドラマ用脚本の、せりふの部分で関わったようだ、その後小説化されるまで、結果複数の人の手によっているらしい。

塩野七生さんのボルジア本を読んだ後だったので、読みやすかった。法王アレッサンドロ6世、チェーザレ、そしてルクレツィア、登場人物は大変人間味たっぷり。にぎやかな戯曲を読んでいるような雰囲気だ。

いつの世も、どこの国でも、勢力争いの中で女は、特に重要な立場にいる女ほど翻弄される。ルクレツィアも父と兄の野望を満たす為の政略結婚を繰り返している。気高く、気丈であるけれど…。

それにしてもチェーザレの志は果てしなく一途だった。
これは塩野さんの『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』を読んだ時の方が迫ってきた感情。
イタリアにとって、その実現にはまだ時を待たなければならなかったわけだけれど、本当に彼はそれを自分が成し遂げると確信していたのだと思うと、胸が熱くなる。

ボルジアの台詞
「…。イタリアは一国に統合されるべきですし、その国は私たちのものになるべきです。」(新潮文庫 p.179)
<040203>







ある家族の会話      ナタリア・ギンズブルク  須賀敦子訳

愛読書『トリエステの坂道』に収められている『ふるえる手』は、須賀さんが最後にナタリア・ギンズブルグに会った時の情景がすばらしいエッセーですが、この中に須賀さんが初めて『ある家族の会話』に出会った時のエピソードが綴られている。

好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引きよせておいてから、それに守られるようにして自分の文体を練り上げる。…そのときの私にとってはこのうえない発見だった。

しがみつくようにして私がナタリアの本を読んでいるのを見て、夫は笑った。わかってたよ。彼はいった。書店にこの本が配達されたとき、ぱらぱらとページをめくってすぐに、これは君の本だって思った。


・・・・・・・・・・・・・・・

著者ナタリア・ギンズブルグの懐かしい人達のことが描かれている。時代がムッソリーニ台頭の頃であり、反ファシストの姿勢を持ちつづけた人々が多く登場することから、歴史的背景も重要なファクターとなっているが、人々の日常や会話は時代を超えている。

5人兄弟の末娘ナタリアが家族を、そして周囲の人々を描くという設定です。客観的に淡々と綴られているのに、そこに深い親しみと愛情が自然にこめられていて全体がほのぼのと暖かい。時代の厳しさをきっちり描いていながら、最終的に残るなつかしさは何ともいえない良い味わいだ。情に流されていない文章がかえってその効果を高めている。これは訳者の著者に対する深い理解と努力のたまものでもあるのでしょう。読後感はしみじみ。『モンテ・フェルモの丘の家』に共通するものだった。

部分的には親友のローラとリゼッタが出てくる個所が好きだ。印象に残っているのは、亡命を余儀なくされた次男マリオが亡命先での生活に傷つき「もうなんの話をしたら良いかわからない」というせりふだった。

ナタリア・ギンズブルグが『失われた時を求めて』の伊訳を手がけていたことは嬉しい発見でした。
<040130>


チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷      塩野七生

主人公チェーザレ・ボルジアはマキャベッリの『君主論』のモデルになった人物らしい。文中にある

「それまでの世の中を支配してきた宗教的良心とか道徳、倫理などから全く自由な男。その目的遂行に際しては、合理性、現実的有効性への判断だけで行動できる男。」(P.126)

というのはずいぶんな表現だと思ったが、この本を読んでみれば本当にそうだったのかもしれないとうなづける。

領地を広げて行く様は冷血、ただの乱暴者にすらみえる。意のままにならないものを、我が行く道に邪魔なものを、方法を選ばず排除する。
滅ぼされる側には一つひとつ悲劇的な物語が生じている。常識はずれの破壊力や決断力があったからこそ野望を抱き、実現に向けて行動できたのだと解釈してもやはり、主人公に魅力や又は題名にもある優雅さを、私は感じられなかった。冷酷さばかりが残るのだ。

しかし、読み終えてしばらく経つと、31歳で挫折のうちに戦死したチェーザレ・ボルジアの人生に、ある種尊敬の感情もわいてきた。20歳代の彼の人生はイタリアを統一するという野望にひたすら捧げられた。方法はともかく彼はその欲望・信念に一途だった。使命感などというものでなく、それは純粋に彼の「したいこと」だったと考えると、それを遂行しようとした彼の人生を否定できない部分もあるのだ。それは特異であったけれどやはり一つの人生だった。

解説の沢木耕太郎さんが「歴史でも小説でも自伝でもなく」と書いておられるのに同感。けれど「しかし同時にそのすべてである」というのにはちょっと同意しかねます。事柄を並べるだけに終わっている部分が多いのは作品として残念でした。

「皇帝か無か」(P.257)という言葉が心に残る。(新潮文庫)
<040121>


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