オリガ・モリソヴナの反語法 バルコニーの男 笑う警官 めぐりあう時間たち この世の果ての家 チャリング・クロス街84番地 不思議な電話 死体が多すぎる ダ・ヴィンチ・コード 帰郷 シチーリアへ シチーリアの雅歌 |
帰郷 シチーリアへ シチーリアの雅歌 ダーチャ・マライーニ 望月 紀子・訳 これはご機嫌な晶文社のマライーニ・コレクションの二冊です。平行して読むことになった。 ダーチャ・マライーニは父の仕事の関係で幼少時に日本で暮らしている。しかも第二次世界大戦のさなか母国のムッソリーニ政権に反発したため家族全員が日本の国内で収容所生活をしていたらしい。日独伊の三国同盟がもたらした結果といえば頭では理解ができるけれど、そういうことがあったなんてわたしは露ほども知らなかった。 終戦を経てイタリアへ帰国した家族は、母方の実家へ身を寄せるが、それからの生活が『帰郷 シチーリアへ』の題材になっている。 シチーリアのバゲリーアがその舞台であり、その中に肖像画で登場する伯爵夫人が『シチーリアの雅歌』の主人公のモデル。 『帰郷 シチーリアへ』はほぼノンフィクションらしく、『シチーリアの雅歌』の方は長編小説だが、その性格の違いの対比が面白く、またどちらもバックボーンについ近代まで永永と続いたイタリア貴族の生活があるところが興味深い。 『帰郷 シチーリアへ』のマライーニの語り口は感傷に浸ることなく、第三者的視線がサッパリしていて好ましかった。大切な歴史の記録でもあるし、こういうルーツを持った作者にしか書けない内容だ。 『シチーリアの雅歌』には18世紀前半を生きた女主人公の半生が描かれている。聾唖というハンディを負っていて、過去には不幸がたくさんあったけれど、成人し、家族を持ち、本を読んで教養を高め、周囲によって作られた人生から決別する強さを身につけてからの第二の人生は生き生きしていて感動的だ。 <050325> ダ゙・ヴィンチ・コード ダン・ブラウン 越前敏弥・訳 ちょっと遅れていますが、話題の本を読みました。 ストーリーのテンポよし(時々良すぎ)、文字遊びのような暗号楽し、主人公たちは何度も窮地にはまりってスリルあり。 最近、ミステリーも読んでいるし、翻訳も自然だったのでタッタカ読めましたね。 ぎんこさんから「ジェットコースター的展開」と聞いていましたが、まさしくそうでした。え、そうなの?あ、そうくる?いや、そうだったんですか?という具合。 過去の記憶、家族との繋がり、学問としての知識に加えて、聖杯伝説をめぐるさまざまな思惑が結果として主人公たちに道を拓いてゆく。 宗教象徴学っていうのは初めて聞きましたけれど、ラングドンのそれだけに限らないさまざまな学識も面白い。中でも黄金比については、つい本を離れて調べ物に走ってしまった。「酢でパピルスが溶ける」のくだりも興味津々、ラングドンを選んだソニエール氏は正解だった! パリへ、そしてルーブルへ行ったことがあったら、もっともっと楽しめただろうな、いや、将来もし行く機会があったら、「ダ・ヴィンチ・コード的見方」も楽しめちゃうな。 <050307> 死体が多すぎる - 修道士カドフェル・シリーズ- エリス・ピーターズ 大出 健・訳 『聖女の遺骨求む』に続くシリーズの2作目。 史実のイングランドの王位継承争いを時代背景に、それに密接した内容は、迫力がありました。 カドフェルの居たシュルーズベリの修道院はこういう微妙な場所にあったんだなぁ、といっても修道院はどこにあっても争いごとには中立なわけだけれど。 第一印象は、ずいぶん直接的な表現!と思った『死体が多すぎる』(One corpse too many)という題には、深い意味が込められていた。単純にいえばスティーブンによるモード派に対する処刑とその死体の数が合わない、死体が一体多いということなのだけれど、最後に名言があって、そこで私は深く感動。 悔い改めもつぐないもする時間を与えられないまま、人生の盛時に命を絶たれた死体は、たった一つでも多すぎる! そうですよ、本当に。 お話は、その95体目の死体から始まるわけですが、これだって埋葬にカドフェルが係わったからこそ見つかったわけで、いわば「木を隠すなら森の中」式の死体隠蔽はほとんど闇に葬られるはずでした。 残る94体にも一人一人の思惑が…などとつい思ってしまいます。 カドフェルに世話になる若い登場人物は、若いというだけできらきらしているけれど、加えてそれぞれ思慮深く、個性も持っていて魅力的でした。若者の描き方は一作目とよく似ている。 ラブストーリーあり、財宝もあり、町の生活描写あり、もちろん謎解きもあり、決闘シーンまで。でもやっぱり一番の魅力はカドフェルの思いやりであり、お人柄。 <050226> 不思議な電話 ミュリエル・スパーク 今川憲次・訳 メメント・モーリ (死を想起せよ) が原題。 不意にかかってくる日常の電話、考えてみるとこれは、待ったなしの一方的な通信手段だけに精神的な暴力になりうる。 受話器をとると相手は「死のさだめをお忘れなさるな」とだけ言って電話は切れる、というのだから気味が悪い。 多かれ少なかれ、こんな電話を受けた人は心が乱れるに違いない。その様子が人それぞれというところがこの小説の読みどころかと。 正直言って、前半は読みにくかった。登場人物はほとんどが80歳前後のお年寄りばかりで、その必然性がわからず話の内容にも入り込めなかったし、たくさん出てくるのでカバーにあった登場人物の一覧が助かりました。調子が出てきたのは後半過ぎだった。大勢の半世紀以上に及ぶ人間関係も絡み合って、読書も気が抜けない。私の場合、前半はちょっとした忍耐が必要でしたが「うむ、我慢してよかったかも」と今は思えます。 お年寄りばかりといっても、想像や期待を裏切り、皆なかなかにまだまだ枯れてはいなくて、悩みもあれば欲もあり結構なまなましいところが面白みだ。会話よりは独り言のような、それぞれの心の描写を楽しんだ。年の功か?複雑だったり、独断的だったり、頭の中はもう誰にも変えられないその人だけの世界という感じが面白い。作者は40歳そこそこでこれを書いたそうで、たいしたものだと思います。 最初に電話を受ける79歳のレッティは、かけて来た相手に思いをめぐらす。恐れながらもテキパキと警察に捜査を依頼し、その後したことは遺言書を書き換えることだった。現実的。 次に電話を受けた85歳のチャーミアンも驚いたりしない。作家という仕事柄、常に生や死について自分の考えを持っている。 「あなたに対して言っているのですよ」と言われて動揺したのはチャーミアンの夫、87歳のゴッドフリーだった。 ほかの人たちの反応も、拒絶してみたり他人事のようだったり、まったく人それぞれだった。 かつてチャーミアンの身の回りを世話していたジーン・テイラーが、老人たちを見ること、つまり「老い」を見ることは、皆にかかってくる「電話」と同じ、と話すところがあった。 「あれこそ私たちの<メメント・モーリ>なんです。皆さんにかかってくるあの電話と同じなの」 年とともに忍び寄る老後や死への恐れに、怪電話が心理的な作用を及しているようだ。どう死ぬのか、突き詰めればどう生きるのか、それを思い起こさせるのが<メメント・モーリ>なのかも知れない。 <050219> チャリング・クロス街84番地 ヘーレン・ハンフ 江藤 淳・訳 また、良き本にめぐり会えた。 幸せ。 まずは、書簡集だと言うこと。私はこれにやられちゃうことが多い。 やりとりは、ニューヨークに住む女性作家ヘーレン・ハンフと、ロンドンの老舗古書店マークス社の人々との間に交わされている。 「貴社では絶版本を専門に扱っておいでの由。『サタデー・レビュー』市場の広告で拝見いたしました。…」 お話は1949年10月5日付けのこの手紙から始まる。 新聞の、たぶん小さな広告に目を留めたヘーレン・ハンフがマークス社に、探している書籍のリストと金額の要望などを書き記し送るのだ。これが素敵な文通の始まりになるなんて、だれに想像できただろう。 装丁の美しい古書に触れては少女のように喜び、読みたい本が途切れれば「モノグサメ」なんて悪態をついて、本を早く探してくれと催促もする、かわいらしいアメリカ女性と、丁重な受け答えのいかにもイギリス男性らしいマークス社のフランク・ドエルのやりとりは、本当に心を暖かくしてくれた。 短い作品で、読んでいて快いけれど、本当は一気になんて読んではいけなかったのだと、今になって思う。この小さな一冊の中には20年もの時が流れているのだ。 手紙の中にヘーレンの生活が見えてくる。彼女は贅沢な暮らしはできないが、良い本を手元に置き、繰り返し味わいたいのだ。高い本は買えない、でも、外国から取り寄せる。このあたり、当時の郵便事情や両国の通貨関係がわからないので不思議なのだけれど、とにかく本好きにはうらやましい環境とだけはいえるでしょう。 出てくる書籍はどうしても気にかかる、知らない本ばかりで情けないけれど、今後どこかで目にしたら、きっと手にとってみるにちがいない。 フランク・ドエルは書店という立場で返信を送っていて、最初はその名前すら明かさなかったし、互いにファースト・ネームで呼び合うのに二年以上かかっているが、堅苦しいところは微塵も感じないし、古書店のほかの従業員や、その家族からもヘーレンのところには手紙がやってくるようになった。本を通して、それ以上のお付き合いがしっかりと始まっていた。 まだ、書きたいことはあるのだけれど、最後に訳者江藤淳さんの解説がまた良かったことを書き残します。 <050210> この世の果ての家 マイケル・カニンガム 飛田野 裕子・訳 透き通るような美しい文章だ。涙が出るほど美しい。 語り部が章ごとに順次代わりながら、ボビーとジョナサンを中心とする人々のストーリーを静かに語ってくれる。 愛していた兄、生まれてくるはずだった妹、あったはずの幸せな家庭。 それぞれに少年時代に受けた心の傷を癒せないまま、二人の少年は出会い、惹かれあい、決定的に互いを生涯必要とし続ける。 ボビーとジョナサンに加え、二人と共にニューヨークで共同生活を始めることになるクレア、そしてジョナサンの母アリス、この四人が語り部だ。 一人ひとりの独白には、良し悪しは別として統一感がある。すべてに作者の感じ方、考え方がストレートに出ていると思った。共通してそれはデリケートで、内省的で、善良だった。 ボビーは不思議な存在だ、穏やかで周囲をまずは受け入れられる、持って生まれた寛容さがある。ぬぐいされない喪失感を抱きながらも前へ進もうとする健全さを保っている。 ジョナサンは最も詳細に描きこまれたキャラクターだろうか。生きていること自体を恥と思うほど、自分の存在に自信を持つことができない。 両親の願いが彼の完璧な幸福であることはわかっているが、それに応えることができそうにない。さらに彼は、彼なりの幸せを理解してもらう代わりに、いつも逃げ出してしまうのだ。 やはり女性として、クレアとアリスの独白は心に響くものが多かったが、印象に残っているのは、後半にあるアリスとジョナサンとのエピソード。ジョナサンと父の散歩のシーンも忘れられない。 伝説の地ウッドストックの近くで、流れている彼らの静かな時間のイメージが残像として心に残った。好きな作品だ。 アリスが言葉にできなかった言葉 「わたしたちは生きている人間同様、死んでしまった人間にたいしてもなにかしら負うところがあり、幸せになるチャンスは−わずかなものだが−来るべき変化を恐れずに受けいれることにある・・・」 頼りなげに見えるわが息子に、母としてどうしても伝えておきたいはずの言葉だ。 <050206> めぐりあう時間たち 三人のダロウェイ夫人 マイケル・カニンガム 高橋和久・訳 封切り時に映画を観た(2003年)。好きな映画だった。 なぜか原作が脚本だと思い込んでいて(なぜだろう?)、読むのがこんなに遅くなってしまったのはひとえに残念。とても好きな作品のひとつになりました。 ミセス・ウルフ 言わずと知れた『ダロウェイ夫人』の作者ヴァージニア・ウルフ。1923年、精神を病み、心ならずもロンドンを離れて郊外で静養中の身。小説の冒頭はウルフの選んだ道を明確にしている。 ミセス・ブラウン 1945年のロサンジェルス。外見的には申し分のない生活環境にありながら、満ち足りない心に悩む『ダロウェイ夫人』の読者、ローラ・ブラウン。 ミセス・ダロウェイ ファーストネームが同じことからダロウェイ夫人と友人から呼ばれているクラリッサ・ヴォーン。現代のニューヨークで、今はエイズの為に死に瀕しているかつての恋人を気遣っている。 今まで読者が知っているヴァージニア・ウルフと、『ダロウェイ夫人』の主人公クラリッサ・ダロウェイにイメージをオーバーラップさせながら、ローラ・ブラウンとクラリッサ・ヴォーンを絡み合わせて物語を読み進めるといった趣向だ。うなってしまう、ウマイ! ミセス・ウルフの章にみられるウルフの考察は、作品論、作家論的な興味を満足させてくれて、作者の並々ならぬ『ダロウェイ夫人』への思い入れを感じる。 この4人の他に、『ダロウェイ夫人』の登場人物セプティマスやエリザベス(娘)と、クラリッサ・ヴォーンの昔の恋人リチャードやジュリア(娘)、友人ルイス、サリーなどが、随所で符合してゆく。『ダロウェイ夫人』なくしては得られない作品だけれど、こんな風に発展させていることは驚異的だと、やっぱりうなってしまう。 病的なまでの感受性の繊細さというのは、実感としては感じることができないが、それを持っていることの苦しさは多少想像することはできる。愛する人がその繊細さのために目の前で崩れてゆく、手を差し伸べることはできない、そこは違う世界なのだ。 映画を観たのはメリル・ストリープのファンだからだ。でも、この作品にあってはローラ役のジュリアン・ムーアの印象が強烈で、小説も彼女のイメージでしか読めなかった。最終章はミセス・ブラウンだ、この章は作品を衝撃的に引き締めている。私はすっかり映画で驚かされていたけれど。 書きとめておきたいことがたくさん。 キスをして池の周りを散歩した、思い出 数時間姿を消そうとする、逃避 窓枠から静かに滑り出る男 生きようとしたすべての人が逝ってしまった 花は野原から腕一杯に抱えられて… そうだこの言葉はきちんと書きとめて置こう 「花は野原から腕一杯に抱えられていま到着したばかりのように見えるのが好き。」 <050124> 笑う警官 マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー 高見 浩・訳 引き続き、マルティン・ベック・シリーズ。これは第4作目になります。 面白かった、巻を重ねるにつれどんどん面白くなるなんて!すごいシリーズで嬉しい。 殺人課の刑事ものである以上、事件の様子は残酷で、その描写には腰が引ける部分もあるけれど、刑事たちの名前やキャラクターもだんだん頭に入って慣れてくるし、以前の作品の事件も作中に登場して、読むのが楽しくてたまらない。 今度の事件は無差別の大量殺人だった。走行中の二階建て路線バスの中で機関銃が乱射されたのだ。被害者の中にはマルティン・ベックの若き部下オーケ・ステンストルムが含まれていた。 お宮入りとなっている過去の事件も絡めて、刑事たちはまた地道な操作に奔走する。家庭でのプライベートなエピソードも以前の作品より織り込まれていて、刑事たちの様子は公私共にとても現実的に見えてくる。個々に調べを進めていく捜査方法は面白かった。 また、都会と地方との環境の違いや、外国人の生活など社会を語る部分が興味深い。 最後の見開き2ページがとても良いんだ。 『笑う警官』がここに集約されているようだから。 <050119> バルコニーの男 マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー 高見 浩・訳 「日は二時四十五分に昇った。」 いかにも北欧らしい書き出し。 明け初めた北の街の様子を鳥瞰するような視線は、ある一室のバルコニーにいる男の目であり、冒頭の描写はちょっとした映画のプロローグのようだ。 巻頭ストックホルムの略図が載せられている。スウェーデンの警察ミステリ、マルティン・ベック・シリーズの第3作、今回の舞台はストックホルムであり、起きた事件は連続幼女殺人だった。 30年前のストックホルムの現状を著しているのだと思うが、それが現在の日本に少なからず当てはまっていることが嘆かわしく、不気味。 捜査が進展せぬまま、いつ次の幼児殺しが起こるかわからない焦燥。被害者が出れば憤りと敗北感に追い立てられる刑事たち。 報われにくい地道な苦労あり、筋違いの突発事件にふりまわされることあり、危険にさらされることもあり等の、警察の捜査活動をリアルに描いている。 読者は刑事たちと共に事件を追い、そして事件はある時、あっけない解決をみるのだ。 解明の糸口のひとつが、何でもないケーキ菓子からひらけたシーンがあった。そんな偶然が当時のストックホルムでは本当にあったような気がする。 次作は、MWA(アメリカ探偵作家クラブ)賞という賞を受けたという『笑う警官』、期待いっぱい。 <050110> オリガ・モリソヴナの反語法 米原万里 語り手弘世志摩は1960年代に現チェコのプラハにあったソビエト学校に学び、現在は日本でロシア語の翻訳をしている。志摩の本当の夢はダンサーになることだったが、その夢に大きな影響を与えた人が、プラハで出会い、今も忘れることができないダンス教師、オリガ・モリソヴナだった。 容貌、身なりはきわめて個性的である上に、放つことばが刺激的。賛辞はきっちりその反対の意味で使われる、生徒たちは派手に褒められては縮みあがり、オリガ・モリソヴナの言葉遣いを反語法と呼んだものだった。 オリガ・モリソヴナの人生にはスターリンによる粛清が暗い影を落としている。どうやってその時代を生き延びてきたのかこの本で読めば読むほど胸ふさぐ思いだ。 志摩はソビエトの崩壊を機にロシアに渡り、ソビエト学校時代の親友カーチャと共に当時の漠然とした謎を追ってゆくが、これが怒涛の謎解き。 調子がよすぎてハイテンポ、読者に推理の余地はないスピードだ。作者にしてみれば、語りたいことがあり過ぎるというところかもしれない。 忘れえぬ人の生きた道をたどるうちに見えてくるものは、時代に飲み込まれ、翻弄され、傷つけられながらも、生きるしかなかった悲しく尊い人生だ。この種の理不尽が歴史の中で繰り返され、個人の一度っきりの大切な人生を狂わせている。収容所生活の後、ソビエトを脱出してプラハに生きる場所を求めた時に、再びダンスを始めようとするオリガ・モリソヴナが失われた長い時間を痛感する場面が痛々しかった。 オリガ・モリソヴナは苦渋の人生をありったけの力をふりしぼって生き抜いた。その反語法は悲しい人生を生き抜くための術だったのだ。そうとわかれば、子供のころ「あれさえなければ」と思ったオリガ・モリソヴナの雑言もいとおしい、読者は志摩と同じ気持ちでオリガ・モリソヴナを思い浮かべることになる。 <050106> |
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