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アスパンの恋文
消えた消防車
灰色の輝ける贈り物  
冬の犬

階段の家
ポンペイの四日間
夢の棲む街
ペガーナの神々
ブリージング・レッスン







ブリージング・レッスン
    
                       アン・タイラー   中野恵津子・訳 
情が深くて、不器用で、人が好き。
思いつきと行動が(これはまったく信じられないほどに)直結しているために、周りをあわてさせるが、結果あっちこっちに頭をぶつけて痛い思いをする本人が、実は一番傷ついたり落ち込んだりしている。
主人公マギーは自分に正直に生きている、その意味では幸せかもしれない。

常識よりちょっとクールな夫アイラでさえ、彼女の性格が生み出す日常の騒ぎに巻き込まれながら、

>世間はアイラが考えているようなものではなく、マギーの考えるものに近いらしい

とどこかで思わされてしまうのは、ひとえに彼女の素直さのためだ。
理屈ではない、本能が正直に出てきているから、良し悪しを超えてどこか納得させてしまう力を持っている。
これを魅力と思えるか、願い下げと思うかの差は、紙一重。
私の場合はそのボーダーラインを行ったり来たりさせられた。これは付き合えない、勘弁して!と思ったかと思えば、次の瞬間共感してジーンとさせられたりするわけだ。

夫アイラの多少奇妙なきまじめさも、結構堂に入っている。
二人はデコボコ夫婦だけれど、それが世の中なのかな。

親友や、たまたま出くわした老人や、息子夫婦をめぐるエピソードがマギーを中心に丁寧に描かれて、充分読ませてくれました。
解説によれば、この作品はピュリツァー賞を受賞しているけれど、でも、これがアン・タイラーの本領とは、私は思いたくない。少なくとも以前読んだ『歳月のはしご』や『時計を巻きにきた少女』のほうが私には面白かったからだ。
<050630>







ペガーナの神々          ロード・ダンセイニ  荒俣 宏・訳

これはまたまた、大した本に出会いました。ミステリ−もさることながら、ファンタジーも未開地ばかりの私は、『指輪物語』があれば一生楽しめると思ったものですが、これはまたずいぶんとお味の違うこと。

まずは題名に惹かれますが、読み始めてみれば、まさに神々しい。永劫が一瞬と表わされるような宇宙サイズのスケールが、現世を越えた精神的な世界へいざなってくれる。

「ペガーナの神々」
小さな夢と幻の神、ヨハルネト=ラハイは夜ごと人々に向けやすらぎの夢を送り出す。
ペガーナに一筋、静かに流れる川イムラーナ。そこへ夢で作られたヨハルネト=ラハイの船がやってくる。船材は遠い昔の夢であり、マストは詩人の空想であり、ロープは人々のはかない希いで編まれているという。
「川」の章が大好きだ、たまらない。

ドキッとする言葉が不意に出る。
風が吹かぬとき、風はどこにある?
またお前が生きておらぬとき、お前はどこに生きておる?


「時と神々」
真実を知る道は、遠く、白く、またまっすぐに伸びております。熱と埃のその道を、地上の賢者たちはたどって行くのでございます。・・・(「詮索の悲しみ」より)
<050621>







夢の棲む街               山尾悠子

これは、たぶんすごいのだ。
告白、この「たぶん」というところが、私の限界です。
でも、この短編集の冒頭「夢の棲む街」は圧巻だった。
この本ほしいなぁ、また読みたくなりそうだから。でも、文庫は相当に入手困難らしく、全集は装飾品のように美しい豪華本。

〈夢喰い虫〉の仕事は、街の噂を集めて、それをまた街中に広めることだ。街は大きな漏斗状にできていて、一番の底部には劇場がある。ちょうど漏斗のふちに当たる一番高い場所へ上ってゆくと、その先は果てしなく地平線すら見えない只ただ平らな平原が広がっている。平原に出てしまうと方向を見失い、たいていの者は戻って来られない。そんな街にも他所から平原を渡ってやってくる商人はあるが、彼らは通じない言葉を使うので、外の様子はわからない。宇宙の小さな凹みのような、隔絶された場所に「夢の棲む街」は、ある。

踊るためだけにいる踊り子は、上半身が退化して、最後には足だけとなって踊り狂わされた。娼館にはなぜか生まれて此の方ただの一度も鳥籠から出たことのないコビトが住んでいる。そして娼館の或る部屋には白い羽を持った天使がぎっしりいっぱいになるほどに増え続け、禁断(あかず)の間と呼ばれる部屋はまるで時間が止まっている程にしか進まない。そこに起こった惨劇はいたずらにその不幸を引き伸ばされているし、地下室の人魚に至っては・・・アァ、もう話せない。
降参しそうだ、でも、がんばった。今更もうやめられない。

グロテスク?でも気もち悪さはなかったようだ、おかげで読了。ぎりぎりの絶妙さか?
そして、最終的にはすごいとしか言いようのない作品だったと思うのだ。えもいわれぬ魅力が確かにあって、真空の世界を漂うような体験をした。

二つ目の「月蝕」は面白かった。私の思う〈幻想〉といえば、この感じかも知れない。

ほかに
「ムーンゲイト」
「遠近法」
「シメールの領地」
「ファンタジア領」
この短編集は若いころの作品群。
<050621>







ポンペイの四日間         ロバート・ハリス   菊地よしみ・訳

主人公アッティリウスは水道管理者だ。驚くべき偉大な事業、古代ローマの七大不思議の一つと言われる水道橋を管理するのが彼の仕事だ。父も祖父もその仕事に従事しており、世襲のように代々受け継がれている技術職。
前任者エクソムニウスが突然姿を消したために、ローマから赴任したが、着任早々前代未聞の断水の対応に追われることになる。事故の原因やその真相にはまだほとんど誰も気づいていない。

歴史上、何が起こったのかを知った上で読むため、人々の運命を思うと緊迫感が否応なく募る。
水にイオウの臭いがする、池の魚が集団で死ぬ、机に置いたコップの水がかすかにゆれる、揺れはだんだんひどくなる。不気味だ、その不気味さを一番感じているのが読者なのだ。あー、ドキドキ。

そんな中、水道官アッティリウスは断水の原因を探っていた。(人間関係や街の有力者の不正など、問題があるがその流れで私たちは当時の人々の生活を垣間見ることができて面白かった。)原因の場所をつきとめてみると、水道橋の下の地層に隆起が起こっていた。水は堰き止められあたりには大きな水溜りが池になっている。アッティリウスは夜を徹して修復工事を済ませるが、読んでいるほうは「そんなことやっている場合では・・・」と気が気ではない。

そしてついに噴火。一度、二度、その地響きはローマにまで届いたという。山の頂からもくもくと煙が立ち昇り天を暗くしてゆく様子も恐ろしいが、この小説のクライマックスは体験型だ。噴火を遠目に見て描いているのではない。まさに自分の所にばらばらと噴出物が降って来る。次の瞬間火砕流が流れてくれば生きてはいられない。その近さで火の山を描いているところがすごかった。

学者として噴火の記録を残そうとする大プリニウスをモデルとした人物プリニウス提督。噴火の17年前に起きたといわれる大地震のあと努力と才覚で元奴隷の身から街の大富豪にのし上がった男アンプリアトゥス。生きた姿では登場しなかったが、噴火をいち早く予想していた前任者エクソムニウス。闘わされては生き残り、ついには自由民になった元奴隷の剣闘士ブレビックスなど。それぞれ登場人物も印象深い。

紀元79年8月の第4週、火星(火曜?)から金星(金曜?)にかけての物語。面白いです、おすすめ。
<050606>







階段の家         バーバラ・ヴァイン  山本 俊子・訳

フィレンツェはウフィッツィ美術館収蔵のある絵によって想起された作品と知って、是非読みたくなった。
あわせて言うなら、ヘンリー・ジェームス『鳩の翼』の主人公ミリーも同じ絵からイメージされていて、そのことはこの作品にも記されている。『鳩の翼』は映画化されたが、映像のすばらしい作品でとても印象が強い。

この絵がブロンツィーノの描いた「ルクレツィア・パンチャティキの肖像」
                                ウフィッツィ美術館の公認ガイドより


主人公エリザベスは遺伝性の精神的病気の可能性を持っている。50歳になるまでに発病する可能性は50%、それまでに発病すれば長くは生きられない。そんな事実を子供のころから知ると知らないとでは人生が大きく違うことは想像に難くない。母は若くしてその兆候を見せ始め、エリザベスは自分を生んだことで両親を責めている。わが子への遺伝を恐れて結婚や子供をあきらめることが多い為、親族は少ない。

階段の家は、エリザベスが母のように慕った叔母(母方のいとこの妻)コゼットが未亡人になってから買った家だ。そこには階段で繋がったいくつもの部屋があり、コゼットはいろんな人をただでそこに住まわせていた。コゼットにこんな台詞がある。「・・・この家は私の生涯の或る段階にどうしても必要なものだったの。・・・」(p.392)
それは10数年前のことだ。その家で事件は起きた。

そして事件から14年後、ある日エリザベスは街でそこにいないはずの女性ベルを見かける。
彼女は刑務所にいるはず、そう思いながらエリザベスは人ごみの中、ベルを追う。このベルが、カメオに彫られているような横顔を持った美女(絵画から想起された)なのだが、周囲を事件の渦に巻き込んでいったのだ。

10数年前と現在が交互に語られる。当時と現在の様子は詳しく描かれて行くが、事件の核心は終盤まで周到に隠されていた。
生まれて此の方幸せだったとは言えないベルも、老いにおびえながらも自分らしい生き方を取り戻そうとしているコゼットも、そしてエリザベスも、総じて女性がよく書けている。心理描写がぐんぐんひきつけるし、とても映像的な作品だ。

作者は、ルース・レンデルという別のペンネームを持っている。作品を名前で書き分けていたのだろうか?作品には絶版のものが多い。

作中にもうひとつ、私にとって印象の強い映画『さすらいの青春』が出てきた(いつごろどこで見たのかも覚えていない、たぶんテレビだと思うのだけれど)ちょっとした喜びと驚き。
<050509>






灰色の輝ける贈り物  冬の犬                  
                 アリステア・マクラウド  中野恵津子・訳

二冊あわせて"Island"という短編集の全訳になるそうだ。
つい、題名と発表年を書き連ねたくなる、うわさに違わぬ名短編集。

『灰色の輝ける贈り物』
  船(1968)
  広大な闇(1971)
  灰色の輝ける贈り物(1971)
  帰郷(1971)
  秋に(1973)
  失われた血の塩の贈り物(1974)
  ランキンズ岬への道(1976)
  夏の終わり(1976)

『冬の犬』
  すべてのものに季節がある(1977)
  二度目の春(1980)
  冬の犬(1981)
  完璧なる調和(1984)
  鳥が太陽を運んでくるように(1985)
  幻影(1986)
  島(1988)
  クリアランス(1999)


静かだ、何ていいのだろう。
慎重に綴られたという印象、とつとつと語られる一編一編のなんと充実していることか。
寡黙な人の適切な一言のような重厚感だ。読みながら、なぜか無声映画を思い浮かべていた。

本書の作品の舞台となるケープ・ブレトン島は美しい島だそうだけれど、作品から受ける印象で心に残るのは正直言ってその美しさではなかった。住んだ人にしかわからないのが土地の良し悪しだが、それほど遠くないプリンス・エドワード島の『赤毛のアン』から受けるイメージとはずいぶん違う。
作品中の若い世代に見られるように、住むには困難が多すぎるのだ。

島の生活は厳しく、仕事は命がけだ。まっとうに生きる姿に背筋がシャンとのびる思いがする。後年の作品ほど更に重みが増して、一編読み終わるごとについ「ふぅ」と息をつくほどだった。

「帰郷」が好きだ。会うのに10年かかった祖父母と孫の僕。
「ランキンズ岬への道」も忘れられない。
「冬の犬」は読みなら息が止まりそうだった。少年の記憶、犬との秘密。
「完璧なる調和」は抒情詩だ。民俗。
「鳥が太陽を運んでくるように」の余韻はどうだろう。
そして圧巻は「島」だった。

もう一冊、翻訳されている長編を手に取るのが楽しみ。
<050429>







消えた消防車
        マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー    高見 浩・訳

シリーズ5作目。
マルティン・ベックシリーズといっても、今回はグンヴァルト・ラーソンシリーズというか、レンナルト・コルベリシリーズというか。
マルティン・ベックの周囲の登場人物たちは、ますます個性を発揮している。

冒頭、マルティン・ベックは、老人ホームに母を訪ねている。息子に負担をかけないようにと心使いする母、ホームに住まわせていることに良心の呵責を感じている息子。母は息子の危険な仕事を心配している。
家庭とも、仕事場とも違う時間が流れている。
そのとき、ある男が覚悟の自殺を図った。書置きに「マルティン・ベック」の名前だけを残していた。

『バルコニーの男』にあったような不気味だが静かなプロローグのあと、一転してグンヴァルト・ラーソンのエピソードが始まる。あるアパートの張り込みをしばらく交代したグンヴァルト・ラーソンは、張り込んでいたアパートが爆発とともに突然炎に包まれるという事件に遭遇した。金髪のターミネーターみたいなラーソンは人命救助に大活躍。消火活動が始まるまでのラーソンの働きがなかったら、大勢のアパート住民はほとんど助からなかったと思われる。
火元や状況を検証した結果、爆発は単なる事故ではなく、事件性を帯びてきた。

出動したはずが消えてしまった消防車が題名に反映しているが、作品にはもう一台の消防車の謎が出てくる。本題に加え、二台目の消防車の謎解きにも飄々としたマルメ署の警部モーンソンが格別のお働き。

それにしても最後のコルベリは心配だ、是非早めに次作へ行かねば。
<050417>






アスパンの恋文       ヘンリー・ジェイムズ     行方 昭夫・訳

面白かった。
一見地味な印象ながら、これは読み始めたら引き込まれるでしょう。
過去の偉大な詩人の恋文にまつわるお話。
あら、おととし読んだバイアット?あれはじっくり読ませる長編でしたが、こちらは200ページ足らずのぐーーっと一気に読ませるタイプです。

研究者にとって喉から手が出るほど手に入れたい今は亡き大詩人アスパンの手紙。
世間にまだその存在を知られていない手紙があるかもしれないという。しかもその持ち主は手紙を送られた恋人であり、存命だというのだ。それが実在するならアスパンを知る上でどれほど貴重な資料となるかわからない。
語り手である「わたし」はまさにそのアスパンの研究者であり、手紙を求め、持ち主と思われる女性ミス・ボルドローを訪ねてヴェネツィアへ赴く。

詩にも詠われた麗しの人ミス・ボルドローは高齢ながら確かにヴェネツィアに存命で、姪のミス・ティータと二人で広い邸(やしき)に住んでいた。でも、「わたし」はまっすぐそこへ訪ねて行って手紙を譲ってほしいなどとは頼まない。実はすでに仲間の研究者が同じ旨手紙で打診したところ、すげなく断られていたからだ。

身分を隠しその邸に間借りを申し込む「わたし」と、何か含みがあること、その目的を薄々承知した上で部屋を貸すミス・ボルドロー。
法外の部屋代を提示するミス・ボルドローと、それを甘受する「わたし」。
ぜがひでも手紙を手に入れたい「わたし」と、渡すどころか手元にあるかどうかすらなかなか匂わせないミス・ボルドロー。

それらは何故?
結末も気になるが、そこへの運びが巧みで、すっかり引き込まれた。それに最後の展開がちょっとした衝撃だ、バッサリ!

ヴェネツィアのお屋敷、幌や窓の付いたゴンドラ、運河に張り出すバルコニー。かの地の雰囲気を十二分に漂わせながら、高貴でも女ばかりのよるべない生活が生み出す心細さなどの心理をじわじわと滲み出させている。
読み終えてからなにやら"ズン"と胸に応える一冊だった。
<050407>






            ダーチャ・マライーニ       大久保 昭男・訳

語り手のミケーラ・カノーヴァはローマのラジオ局に勤める独身女性。
ラジオといえば音と声の世界だ。この小説には声、人の語る言葉が持つ不思議さが語られていると思う。原題は"Voci" 『声』。

人は、話しながら自分の本心を確認してゆくことがある。話し言葉は語るたびに変わる事もあるし、話し手と複数の聞き手によってさまざまに表情を変えるような曖昧さも持っている。話し手は嘘をつくこともあるし、真実と嘘の区別がつかぬまま発せられる言葉もある。

ミケーラは仕事柄、言葉のニュアンスに敏感な主人公。
ある日、ミケーラの住まいの隣人アンジェラが殺された。ミケーラと同世代の美しい女性だった。
わが身にも起こりかねない事件の恐怖と、かつて隣人だったアンジェラへの捨て置けない興味と、そしてちょうど局から命じられた対女性犯罪の調査が重なり、ミケーラはカセットレコーダーを肩に事件の真相を探るべく取材を始める。

語られることが信じられるかどうかは、どのように決まるのだろう?
信じてほしい
信じて!
信じなくてはいけません
あなたなら信じてくれる
どうせ信じてはもらえないのだろうけれど

取材相手の様子はみな真実を語っているようなのに、誰一人本当のことを語らない。

他方では警察の調べもすすんでいて事件は解決を見るが、ミケーラには声で表現される言葉への疑問が残った。

仕事場の机の上に巣をはる小さな蜘蛛、路上で見つけた瀕死の亀、街にあふれる野良猫。もの言わぬ動物たちへのミケーラの情は、声を超えるなにかを感じ取る無意識の行動か。
<050402>




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