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アスタの日記
サボイ・ホテルの殺人
ディフェンス
真珠の耳飾りの少女
シカゴ育ち
愛の続き
結婚のアマチュア
ローマ人の物語 悪名高き皇帝たち
死のクレバス アンデス氷壁の遭難






死のクレバス アンデス氷壁の遭難  J・シンプソン  中村輝子・訳

真実の力だ、引きずりこまれるように読んだ。

登山を知らないので、実際のところ書かれている状況が絵になって頭に浮かぶほどは理解できない、でも魅力はそれを大幅に上回っていた。もちろん状況が分かればわかるほど臨場感も迫力ももっと増すに違いないけれど、嘘のない心理描写が大事な柱だからだ。

1985年、アンデスで未踏のシウラ・グランデ西壁に挑戦した著者ジョー・シンプソンとサイモン・イェーツは、登頂成功の直後、事故にあい遭難してしまう。ジョーが足を骨折した段階で絶望の空気が行間からにじみ出て、読んでいる私も先を思っていたたまれない。でも、二人はあきらめず下山を試みる。痛みと戦うジョー、二人の命を背負ってしまったサイモン、頼りたい気持ちを制するジョー、ジョーの激痛に目を瞑り降りることを最優先に心を鬼にするサイモン。

天候は悪化し、互いが見えない状況の中、ザイルだけで繋がっていた二人だったが、綱渡りのような下山途中、ジョーは氷の縁を飛び越して滑落したままクレバスの上で宙吊りになってしまう。更なる災難。ザイルの先で何が起きているのか分からないまま、二人して身動きできなくなってしまった時、サイモンが最大の窮地に追い込まれた。
そのクライマックスを挟んでの二人の行動や心情を、読んで感じるのが味わいの真髄です。

このドキュメンタリーは、著者が死の淵から生還できたからこそ残された記録であって、いくつもの遭難事故にはそれぞれに語られることのなかった壮絶な物語もあるのだろうと思うと、胸が痛くなるし、本書をまとめることの出来たジョーの向こうに、一生この遭難事故について自問自答を繰り返すサイモンが見えるような気がして、それがせつない。

出先のため、最初は文中にある登山の専門用語を調べたくても出来ないまま読んでいたが、もしやと思い最後を見たら、ちゃんとアプザイレンとかトラバースなど、用語の解説が付記されていた。これは助かりました。
でも、本当はハーケンやハーネスの使い方を、誰かに教えてもらおうかなぁ、と思ってます。打ち込んだ楔は、どうやって回収するんだろう?ということが実は昔から不思議なのだ。
<051219>







ローマ人の物語 悪名高き皇帝たち(一〜四)    塩野 七生

カエサル、アウグストゥスの部分が感動的だっただけに、あとはもう読まないことにしようかなと思っていたが、目の前に四冊積んであり、「しばらく読めないから、お先にどうぞ」と言われては、やっぱり手にとってしまう。

ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、そしてネロを語る『悪名高き皇帝たち』は文庫本で四冊。皇帝ひとりあたり一冊の勘定です。
知名度で言えば何といっても有名なのが暴君ネロで、四冊目(『ローマ人の物語』20)はまあまあ面白かった。
でも、正直あんまり語ることがない。
著者の目も大変客観的だ、その人物にほれ込んで熱っぽく書き進めたカエサルの部分とは比べるべくもない、仕方ないです。

「ユリウス・カエサルが青写真をひき、アウグストゥスが構築し、ティベリウスによって磐石となったローマ」のフレーズが何度か出てきた。
魅力的ではないにしろ、さほど突出してマイナスなわけではないティベリウスやクラウディウスはともかく、若くして皇帝になったカリグラ、ネロの愚かさかげんは、面白おかしく枝葉がついて後世に語り継がれている。
でも、カリグラもネロも国民に請われて、絶大の人気のうちに即位したし、ネロには善政を敷いた時期もあったことを、今回知りました。そのあたりも塩野さんは冷静に書いています。

心に残ったのは、二年余りで国の財政を破綻させたカリグラの浪費と、自分を助けてくれる人材を端から亡き者にしてしまうネロの心理だろうか。
そして巻末の年表を見れば、皇帝ネロの時代の日本は倭奴国の金印の時期という事実、わかっていてもなんかずっしり。
<051213>







結婚のアマチュア        アン・タイラー     中野恵津子・訳

運命的と思われた出会いと、衝撃の一目ぼれの後、恋に落ち、マイケルとポーリーンは結婚した。出会いは1941年、パールハーバーの直前で、ストーリーはそれから60年間の二人をめぐる物語だ。

結婚に対してプロやアマチュアという見方なんて思いつきもしなかったから、題名を見たときは訳をいぶかしがったくらいだ。でも、読み進めるに従い私なりの解釈が出来てきた、どんな人も結婚のプロになどなれない。言ってみれば結婚だけでなく、人はみな人生そのもののアマチュアだ。多少は他人や歴史から学習するにしても、一回だけの人生を一様に初体験や失敗を積み重ねて生きて行く。ひとつとして同じ結婚も人生もないから、どんな側面もみなアマチュアの判断をしながら行くしかない。

思うのは、結果としてその成功率には多少差があるかもしれないと言うことだ。どれだけ満足できるか、納得できるか、または優しい気持ちで思い返すことが出来るか?

いつも変わらぬ普通の人たちが織り成すアン・タイラー作品の世界だった。マイケルとポーリーンの60年、生きてきたというだけでいとおしいという気持ちになった。
<051026>







愛の続き             イアン・マキューアン   小山 太一・訳

主人公ジョーと恋人のクラリッサは、ある日気球の事故を目撃し関与した。ジョーは事故現場に駆けつけ、ゴンドラに残された少年と転落しそうになっていたパイロットの救助に協力したが、その事故で出会ったパリーという男にその後執拗に追われることになる。

『アムステルダム』の文庫化で、あわてて読んだというのが真相。本書『愛の続き』も文庫化される話を聞き、本棚に飾っている場合ではないと思ったのです。
読むのを先延ばししていたのには多少わけがあった。つきまとい、ストーキング、強迫、恐怖、それが愛に絡んでくる。このイメージが多分に読み始めるのを躊躇させていた。私は基本的に主人公が追い詰められてゆく心理サスペンスが苦手、誰でもそうだと思うけれど読んでいて息苦しくなってしまうからだ。でも、読んでみないとわからないものだ、これはすばらしい出来ばえの作品だった。

私が惹かれたのは主人公の恋人クラリッサの心の描写だった、これがとてもよかった。平穏で幸せな、つまりうまくいっていた二人の関係が、パリーの出現で様相を変える。事故を目の当たりにしたショックも加わり、二人はそれぞれに精神の均衡を保てなくなってしまい、それまでしなかった喧嘩もすることになる。
この辺は読ませます、そう、文章がうまいのですね、しかも読みやすい。事故の様子も然りです、緊迫感をつのらせながら情景が刻々と見えるようです。

あらゆる事故には当事者があって、その後ろに家族などの人間関係がある。その一人ひとりに何かしら影響を及ぼし、目に見えない精神的な影ほど癒されにくい。悲しみだけでなく、思い込みに打ちのめされたり、あらぬ邪推に悩んだり、人の心なんて本当に弱々しくて、すぐに壊れてしまう。けれど何かをキッカケにふっと張りつめていた糸が一気に緩められたように安堵に包まれることもあるのだ。

ジョーは文中、パリーにド・クレランボー症候群という精神病的な症状を見出だす。実際にこの作品は、実在のド・クレランボー症候群のある症例が下敷きになって書かれているらしく、それを知ったときは現実味が増したように感じたせいか、背中がすっと寒くなるような気がした。
『愛の続き』とはいろいろな意味を持った題名だった。
<051003>







シカゴ育ち        スチュアート・タイベック  柴田元幸・訳

短編と、本当に短いショートストーリーが交互に配され、ショートストーリーはやさしい丸みの活字で印刷されている。一つひとつの話に関連はないが、本自体の構成に波のような強弱とか動静という様なつながりを感じることが出来る。

ファーウェル
冬のショパン
ライツ
右翼手の死
壜のふた
荒廃地域
アウトテイクス
珠玉の一作
迷子たち
夜鷹
失神する女
熱い氷
なくしたもの
ペット・ミルク

読書時間がこま切れになった事情もあって、珍しく繰り返し読んだ。

「冬のショパン」に出てくるジャ=ジャ(語り手の少年の祖父)の台詞が印象深い。世間から誤解されたり、忘れられたような存在の人が、時になかなかの博識だったり、なぜか無口なのにひとたび話し始めると魅力的な言葉を使ったりすることがあるものだ。

このお話で、ジャ=ジャを雄弁にしたのは上の階から聞こえてくるショパンのピアノの調べであり、そのステキな語りを聞けたのは孫の「僕」だった。
(作者が)「死んでから世に出た音楽」のことを「あっちの世界から渡ってくるワルツ」なんて表現するところで、私はしびれた。
ジャ=ジャはピアノの音を聴きながら、弾いている女性がどんな恋をしているかにまで思いが及ぶ。同じ食卓に向き合って腰掛け、書き取りの宿題をする僕を相手にジャ=ジャはショパンを語ってくれた。上の階から聞こえてくるマーシーの弾くピアノと心でセッションしながら、ジャ=ジャと僕の夜がふける。

今、僕のそばにはジャ=ジャも僕の初恋の人マーシーもいない。
人がいたという記憶、今はもういないという思い、何かにつけてそれを思い出す日々。そしてそのあと、いつの間にか喪失感やつらさに慣れてきたことに改めていないことを感じさせられる。

「夜鷹(ナイトホークス)」は「雨で横丁は川になった。」と始まる。そして終盤に「雨で横丁は、眠る者たちの間をくねくねと流れる川になる。」と、このイメージを二回展開している。川の流れる音を聴いている少年と男。

「ペット・ミルク」が素敵だ。ペットミルクという言葉自体がノスタルジックだけれど、お話もそんな雰囲気をかもし出して、しかも洒落ている
<050920>







真珠の耳飾りの少女    トレイシー・シュヴァリエ  木下哲夫・訳

1664年、オランダはデルフトでのこと。
画家である主人のアトリエで、制作中の絵のモチーフを少しも動かさずに掃除をすること、これがその家の女中となったフリートの一番大切な仕事だった。目の不自由な父を持ち、日頃から物の場所などに気を配る習慣があることが、白羽の矢が立った理由だったのだ。
貧しい家の働き手として、フェルメール家の女中となったフリートはまだ16歳の少女だったが、フェルメールはフリートを見てすぐに、彼女に絵心があることを見抜いていた。

女中としての仕事をする一方で、絵具のお使いを頼まれたり、顔料を練るなど、次第にフリートは画家の仕事も手伝うようになり、最後には一枚の絵のモデルとなった。『真珠の耳飾りの少女』、青いターバンの少女とも呼ばれる絵は、他のフェルメールの絵とは少し趣を異とする。その辺が、この小説を想起させるところだったのかもしれない。

トーンを抑えた語り口はとてもよい印象だ。これはデルフトの風景やフェルメールの絵そのものの雰囲気にぴったりだ。日常的な人のありさまを描いたフェルメールの絵のように、些末なものから熱く深い思いまでを心に内在させながら作品は静かに語られた。

奉公に出た少女、その家族、奉公先の家族、いろいろな登場人物の気持ちがそれぞれに絡み合うが、最終章の閉じ方がスマートだった。実は何かにつけて多少出来すぎの少女フリートは気になるけれど、洗練された作品だと思う。

絵の具や絵の制作過程に触れる部分は、未知のものを見る思いで、とても興味深かった。映画も観てみたい。
<050905>






ディフェンス           ウラジミール・ナボコフ  若島 正・訳
 悲しさが、残るお話です。

まず、小さなか弱い男の子として、主人公ルージンは登場した。
父は、父のやり方で小さなルージンを心配する。どうやら凡庸な子供ではないようだ、まれとも言える才能を持っている、しかし、あの子はどこか病んでいるのかも知れない。父も母も、祈るような気持ちでわが子を見守るが、すでにルージンは侵し難い運命の中に生きていたようだ。

チェスを知ったその日から、ルージンは虜になった、これが彼の運命。子供心にトランプのマジックなどにも興味を持ったことはあったが、チェスが彼を魅了したのはその仕掛けのないシンプルさだったようだ。そのへんはもう本能的な嗜好の域なのか。

瞬く間に彼はチェスの腕をあげ、あっと驚かせるような華麗な攻めで世界各地での転戦に次ぐ転戦を勝ちぬいてゆく。名声をも上げたルージンだったが、その様子は意気揚々とか快進撃と言ったようなものでなく、実は骨身や生気を削っての戦いだったのだ。
ボロボロになりながらも、憑かれたように盤に向かおうとする。試合のあとは、満足に部屋まで戻ることすらできないほど疲れ切ってしまい、泥のように眠る。
これが本当に、やりたいこと好きなことをやっている人生なのか、と思ってしまったけれど、そんな彼の姿に深く共鳴してくれた女性が現れた。あえて共鳴と書いたのはちょっとした意味を含めています。

ついにルージンは病に倒れ、チェスに関してドクターストップがかかってしまう。自身もチェスを忘れようとするのですが、さて。

初めて読んだナボコフですが、実は難しかろうという先入観がありました。でも、まずこの文章は好きです。解説によると文節が長く翻訳も大変だったそうですが、無駄のない文章でとてもきもちが良いと思う。
そう、無駄がありませんね、考えてみれば250頁ほどのこの本に、どれだけのことが書かれていたか、と思うと改めて驚いてしまうほどです。

訳者の解説は、深い読み込みを思わせます。読み上げた時は、とてもこんなふうに隅々まで味わえませんでしたが、なるほどなと思う点をいくつも教わりました。でも、ただストーリーを追うだけの読み方でもじゅうにぶんに味わい深かったと思います。


冒頭に書いた「悲しさ」は、以前読んだ騎士の話『将棋の子』や『聖の青春』に近いもの。
<050727>







サボイ・ホテルの殺人 
          マイ・シューヴァル/ペール・ヴァールー 高見浩・ 訳

マルティン・ベックのシリーズも6作目となりました。

ある蒸し暑い夏の日、スカンジナビア半島の南端に位置するスウェーデンはマルメの、由緒正しそうなホテル、サボイ・ホテルの広いダイニングルームが事件の現場となる。めかしこんだ男女7人のグループの1人、実業家のパルムグレンは、まっすぐに彼に歩み寄った1人の男に抵抗する間もなく撃たれ、その後息絶えた。

被害者があまりに経済界に影響の大きな人物だったため、警察の上層部は捜査方法に慎重な態度をとったが、最前線のマルティン・ベックたちのペースはいつも通りだ。さすがです。

地味な作品かも知れない、でも私は結構買っている。

家庭内暴力や幼児虐待、水銀による海水の汚染など、いつものように社会問題への懸念も織り込まれているし、登場人物のプライベートにはまた新しい発見があった。おやおや。

終盤にエド・マクベイン87分署シリーズの『死が二人を』が出てきたけど、これもいいらしいので気になるところ。
<050723>







アスタの日記   バーバラ・ヴァイン(ルース・レンデル) 榊 優子・訳

いや、すごいわ、これは!
構想のぶ厚いことといったら!!

『階段の家』を読んだとき、マルチヴァクさんからお勧めいただいた本書、隣りの市立図書館のお世話にまでなったけど、その甲斐有りでした。
登場人物がけっこう多くてね、私の場合、ちょっとうろうろするのですよ、それ。でもどんどん面白くなるのです。

ほぼ一世紀前、デンマークからロンドンへ夫の仕事の関係で移住してきたアスタ・ウエスターバイ。1905年当時24歳だったアスタはその後60年に渡って続けた日記を綴り始めた。
日記は人知れずデンマーク語で書かれ、アスタが亡くなるまでその膨大な量にも係わらず、誰にも存在すら知られていなかったのだが、娘スワニーによって翻訳され、出版され、結果ベストセラーにまでなった。でもスワニーはそもそも出版するために翻訳をしたのではない。スワニーには出生に関する深い悩みがあり、その謎を解くために藁にもすがる気持ちで母の日記を読み始めたのだ。

スワニーは2人の兄と1人の妹と共に育ったが、母から一番愛された子供だった。北欧風の美人で人からも好かれ、望まれて幸福な結婚もした。なんの曇りもなかったスワニーの人生を、ある日一通の手紙が一転させたのだ。
そのときスワニーは58歳。約束されていた平穏で幸福な老後は、その日を境に大きく狂わされてしまった。原因はまったく彼女の負うところではなかっただけに、その余生に苦悩する様子は痛々しい。

さて、日記はスワニーにまつわる謎を解き明かしてくれただろうか?
アスタの住まいの近所で起こった殺人事件、マリーのために作られたドールハウス、戦死したアスタの長男モーゲンズが母にもたらした人間関係、などを絡めながら、スワニーの妹マリーの娘、つまりアスタの孫娘アンが語り部となり、謎はだんだんに明かされてゆく。
<050716>






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