水妖記(ウンディーネ) 夢の女・恐怖のベッド 唾棄すべき男 死都ブリュージュ 影の季節 セルバンテス短篇集 あのころ、私たちはおとなだった 香水 ある人殺しの物語 25時 フェルマーの最終定理 |
フェルマーの最終定理 サイモン・シン 青木 薫・訳 Xn+Yn=Zn nが2だったら、さすがの私も覚えている。 「直角三角形の斜辺の二乗は、他の二辺の二乗の和に等しい」という学校で教わったピュタゴラスの定理なのだけれど、nが3以上の自然数の場合はこれが成り立たないそうだ。 「n≧3の自然数に於いては、この式を満たすX,Y,Z,はない」と言ったのは17世紀のアマチュア数学者フェルマーだった。 「私はこれを証明することもできるが、紙の余白が足りないので、ここには記すことが出来ない」と書き残して、謎だけを世間に投げかけたが、その後300年、数学的に立証されないまま有名な問題になってしまった。 「どうだい?解けるかい?」とでも言うような茶目っ気なのか、どうしても正解を隠しておきたかった結果なのか、こんな遠大な問題提起になってしまうと、フェルマーは思っていただろうか? 本書は、素人にもなるべくわかりやすく書いてあるのがベストセラーになった要因のひとつだと思う。正直言って私にとってはここに最小限乗せられている数式も難しく、理解には限界があって、仕方なく飛ばして読んだ部分もあったけど、数学苦手の私にも数式の美しさを連想できる瞬間が幾度もあった、これはホントウのこと。 数学者は、問題があれば解かずにいられない気持ちになるのでしょうし、それが充分楽しいのだろうというのは想像できますね。 300年来、数知れない学者が証明を試み、少なからず前進の兆しを見た先人もあったけれど、未だ確実に立証されていない、そんな難問であればあるほど挑戦もしたくなるでしょう。 どんな人がどんなふうにこの問題にかかわってきたのかが、丁寧に書かれていた。数学のひとつの問題にこんな歴史があるなんて、内容の理解はともかく、心動かされるものがあります。 それに、随所に挟まれている話題には、数学オンチの私でも興味を覚えるものがあって、数学の面白さをちょっとだけ経験出来て楽しかった。 チェスボードとドミノの駒の話、17年蝉が生き延びる自然の摂理などは単純に知って深く納得してしまったし、ゲーム理論というのを読んで目からウロコ。アナログ感性人間の私としては、数学はえらい!と素直に感服しました。 さて、最終的にこの難問を解いたのは現代の数学者アンドリュー・ワイルズだった。 子供のころにこの問題に出会い、それから20年を経て立証する講義で夢を実現した彼の最後のセリフは「ここで終わりにしたいと思います」だったそうだ。最後の7年はこの問題に集中し、孤独に向き合ってきた結果だった。その間困難もあったし、このセリフのあと、論文を作り上げ正式に認定されるまでにも心労はあったが、彼は報われた。 一方、ちょっと報われていないのが日本の数学者、残念なので名前だけ残しておきます。 アンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理を解くにあたって、大きな役割を果たした理論を初期に発見しながら早世した谷山豊さんと、その理論の証明につとめ続けた志村五郎さんは世界に誇れる日本人数学者。二人が呈した理論は「谷山・志村予想」とよばれた。 <060623> 25時 デイヴィット・ベニオフ 田口俊樹・訳 麻薬がらみの罪で明日は連邦刑務所に収監される主人公モンティ。 刑期は7年、舞台はニューヨークだ。 保釈金で今は拘置を免れているが、自由でいられるのは今日限り。 想像するに刑務所のあり方は、日本とだいぶ違うようだ。 7年の刑期を、モンティが耐えられるのかどうか、解らない。 刑期を終えたモンティが今の生活に戻ってくるとは、誰もが思っていない。 今の選択肢は服役、逃亡、自殺の三つ。 どの道を選んでも、今日はこれまでの生活との決別の日。 そこにはいろいろな形の別れがある。 ひどく悲しい話だが、麻薬を所持し、他人の人生まで狂わせたことの罪と罰が はっきりと横たわっている。 <060425> 香水 ある人殺しの物語 パトリック・ジュースキント 池内 紀・訳 奇想天外ながら、受け止められる。 「よくもこんなストーリーを」と思いながら、何か比喩されるものを想像しながら、ひきつけられてしまう。 十八世紀のフランスに、とある男がいた。天才肌の、おぞましい男である。 訳も絶妙だ。「ふむふむそれで?」と思ってしまう。 日ごろそれほど気にも留めていないものにも実は匂いがある。 かくも様々なものに、それぞれ固有の匂いがある事を、文中随所で思い出させてくれた。想像できる匂いも出来ない匂いもあるけれど、全体に匂い、香りが満ちている小説なんて始めてだ。そういう意味でも希少な作品、多少実験的ですらある。 でも、主人公のジャン・パティスト・グルヌイユには匂いがない、そういう設定なのだ。体臭がないことで、人から本能的に疎まれる。こんなこと考えつくなんて、なんていう作家だろう!。でも、そういうこともあるかもしれない、と思ってしまう人は読み続けるのだ。 さらに言うとグルヌイユは超人的な臭覚を持っている。これがストーリーを作り出す。パリの香水店でのエピソードは、読んでいて楽しかった。でも、凡人がついていかれるのはこのあたりまでで、その先は「天才肌の、おぞましい男」の世界だ。 技術も身につけた生まれつきの天才調香師は、自分の体臭を作り出し、更にとうとう一番求めていた香りを手にする。 その過程と顛末は、パトリック・ジュースキントの筆でお確かめください。 <060415> あのころ、私たちはおとなだった アン・タイラー 中野恵津子・訳 Once upon a time, 原作はこう始まっているそうだ。 昔々あるところに…、アン・タイラーはおとぎ話を書きたかったのだろうか? 大小さまざまな岐路に立つたびに、積極的にあるいは流されるようにどれかの道をみんな選んで行く。岐路の数だけあるもうひとつの人生が、ふと頭をよぎることは、きっと誰にもあることだ。 主人公レベッカもその1人。 53才、未亡人、娘が4人で孫もいる、もうすぐ100才の誕生日を迎える叔父と同居しながらパーティ会場の運営を切り盛りする、大家族の中心人物だ。 でも実際には、4人の娘の3人までは他界した夫の前の妻との子供たちで、叔父とも血縁関係はない。大家族ダヴィッチ家にあって、右を向いても左を見ても義理の関係ばかり、夫亡き今となっては一番外からやってきた立場なのだ。 しかも夫は結婚後わずか6年で亡くなってしまい、その後はレベッカが何もかも、引き受けなくてはならなかった。 もうひとつの人生に、レベッカが思いをめぐらすのはもっともであり遅すぎるくらいだ。 こう書くとちょっと重々しいけれど、そこはその、書き手がかのアン・タイラーだ。 多彩な登場人物も見事に書き分けられて、随所にキラリと輝くなにげない呟き。アン・タイラーにはずれなし、です。 <060323> セルバンテス短篇集 牛島信明・編訳 先月、下北沢の古書店で見つけた一冊。 下北沢には古着屋さんが目立つが、古本屋さんも多いのかもしれない。 かの長編小説『ドン・キホーテ』で有名なセルバンテスは「私こそスペイン語で短編小説を書いた最初の作家である。」と『模範小説集』の序文に書いているそうだ。 本書には、『模範小説集』(12編から成る)より3篇 「やきもちやきのエストレマドゥーラ人」 「ガラスの学士」 「麗しき皿洗い娘」 そして『ドン・キホーテ、全篇』から1篇 「愚かな物好きの話」 この4篇が収録されている。 どれも戯曲的で、お話が面白い。 滑稽であり哀しくもある、それぞれに悩ましい男たち。 「やきもちやきのエストレマドゥーラ人」では、年の離れた新妻を世間から遠ざける夫が、そして「愚かな物好きの話」では、妻の貞節を親友に試してもらおうとする夫が話の種を提供。 「愚かな物好きの話」は本当にこのまま舞台にできそうだ。中世の衣装、舞台の大道具、小道具まで何となく頭に浮かんで出てくるほど。この話が『ドン・キホーテ』には「朗読される」という設定で挿入されているらしい。この短編まるまんまなのだろうか?どたばた劇一歩手前のオペレッタのような楽しさだった。 「ガラスの学士」は多少趣が異なり、何となく哲学的。社会を映す鏡のようなところがあるのかもしれない。 狡猾に悪事をめぐらす登場人物はなく、古きよき時代のおおらかな物語の世界なのかな。 <060304> 影の季節 横山秀夫 表題作「影の季節」に続いて「地の声」「黒い線」「鞄」の四篇。 私のようなもの知らずには驚くことも多々あるけれど、さすが新聞記者というキャリアが物を言っていて、読み応えありました。そうか、このキャリアがどこか松本清張を思わせる重厚さの源なのかな。登場人物たちが思いをめぐらす内容や過程が見えるのが、引きつける要因だと思う。 何ていうのか、人物にしても、事柄にしても、デッサンがしっかり出来ているっていう安心感があります。 次は『クライマーズハイ』を読みたい。 <060220> 死都ブリュージュ ローデンバック 窪田般彌・訳 亡き妻を思いながら暮らす場所に、ユーグはブリュージュを選んだ。 彼の悲しみを慰め、気持ちに沿う街だった。 妻の死と共に、ユーグの周囲は一変した。 かつて妻の係わったすべてのものを、ユーグはそれはそれは大切にした。 妻の触れた家具、妻が座ったソファに今も妻を感じ、妻を映した鏡はその面影を消し去らぬようそっとぬぐうのだ。 妻への思いは、今やユーグにとって信仰とも言えるものだ。 ところがそんなユーグがある日、街で妻にそっくりの女性に出会う。 人はいつでも、自分の見方で、見たい見方で人や物を見る。 理想があれば、身勝手にその理想に近づけて見てしまう。 ユーグの場合も、それが双方に悲劇を招いた。 つまり、妻に瓜二つと思われた女性も、次第にユーグの勝手な思いを裏切り始めるわけだが、それに気づくころには既にもう心は引き返せない。 とまあ、これが泥沼の展開を予想させる前半の運び。 なぜ、ブリュージュと題名に冠したのだろうか?と敢えて書いておきます。 もちろん、ブリュージュでなくてはいけなかった。とりわけ作者にとってそうだったわけですが、私にとってはブリュージュがどこかの架空の都市名であっても、この作品のイメージはきっとほとんど変わらない。 悲しさをたたえ、ユーグの心を映す街の存在感と、数多く挿まれている街の写真がかもし出す雰囲気は特異でした。 <060209> 唾棄すべき男 マイ・シューヴァル&ペール・ヴァール 高見 浩・訳 シリーズ第7作目 これは単独で読んでも、登場人物が分かり易いはず。 事件解決がいつになく(!)スピーディなので、つい一気に読み通してしまった。 よく思う。 マルティン・ベックシリーズって、導入部が冴えている。 中盤も、面白かったり、重みがあったり、社会をよく描いてあったりで、読み応えがある。 だけれど、割と最後があっけないのじゃないかなぁ。 今回も、ある意味とんでもない。 その辺がかえって現実味があるのだろうか? あぁ、シリーズは残すところ三冊、大事に読まなきゃ! <060205> 夢の女・恐怖のベッド ウィルキー・コリンズ 中島賢二・訳 短編集、8編ともひとつ残らず文句なしです、良い感じ。 代表作は長編らしいけれど(『白衣の女』『月長石』未読) この短編集は良かった、堪能できました。 解説によれば、ここに納められた8編は 二冊の短編集から7編と 雑誌に発表された一編を原本としているそうですが それぞれに趣向を凝らした手法で書かれていて そしてそれぞれ端正な出来栄えです。 題名と一言覚え書き 1856年『暗くなってから』より 「恐怖のベッド」…恐怖 「盗まれた手紙」…探偵ごっこ 「グレンウィズ館の女主人」…姉妹 1859年『ハートの女王』より 「黒い小屋」…気概 「家族の秘密」…絆 「夢の女」…夢 「探偵志願」…ユーモア 1874年 雑誌『オール・ザ・イヤー・ラウンド』より 「狂気の結婚」…圧力 最後の二編は、私好みの手紙形式。 「探偵志願」に至っては手紙分だけで書かれた推理小説だ、 珍しいでしょう? <060202> 水妖記(ウンディーネ) フーケー 柴田治三郎・訳 『オンディーヌ』なら聞いたことがあるけどな、と思いながら手にした一冊。 翻訳が、クラシカルだけれど自然でとても好き。 ウンディーネは水の精。 人は死によって「魂だけの浄らかな生活にはい」ることが出来るが、水精だけに限らず精たちは「死んでしまえば」「心もからだも微塵になってほろんでしま」うとありました。 精には魂というものがないというのです。(p.69付近) こんな事は考えたことがなかった。 万物に魂が宿り、山の神、水の神、石の神といった具合に八百万の神様を拝んでも不思議を感じない日本人の感覚からすると(ちょっと例えが違うかな?)思いがけないことではないかしら? 16世紀にこんな記述があるそうです。 「水精は人間の女のような姿をしているが、魂がない。人間の男に愛されてその妻になると、魂をもつにいたる。夫はその妻を水辺または水上で罵ってはいけない。その禁を犯すと、妻は永久に水中に帰ってしまう。しかし死別ではないから、夫は他の女を娶ってはならない。もし他の女を娶るならば、水精自身が夫の生命を奪いに現れることになっている。」 ウンディーネは騎士フルトブラントの妻になり、この伝承に沿ってお話は展開してゆくわけです。 『人魚姫』や『鶴の恩返し』と通ずる悲しみが残ります。 純粋な精たちは、心の弱い人間に裏切られた時、魂をもったばかりに深い悲しみも知らされることになる。 それでも、魂を持ったからこそこうして泣くことも出来ると、後半はひたすらけなげなウンディーネ。 「愛の喜びと愛の悲しみは、互いによく似た優しい姿の、親しい姉妹」(p.106)だなんて、ズンと応えるフレーズもありました。 良いものを読みました。 憂世を忘れたいようなとき、お勧め。 ちなみに、ジャン・ジロドゥーが1939年に戯曲として書き上げた『オンディーヌ』は、フランス語読みであり、フーケーの本作が元になっている。 <060114> |
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