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ドリアン・グレイの肖像
巡礼者たち 
聖なる酔っぱらいの伝説
季節の中で
聖母の贈り物
マリオンの壁
風の影(上・下)

ウッツ男爵 ある蒐集家の物語
村田エフェンディ滞土録
白の闇





白の闇             ジョゼ・サラマーゴ     雨沢 泰・訳

ある交差点で信号待ちをしていた車の運転手が、突然失明した。
信号が変わっても動かない車に人が群がり、その中の一人が運転を代わって失明した男を家へ送ることにした。男は妻と一緒に眼科へ行った。病院の待合室には何人も患者が待っていたが、急患扱いで男は医者の診察を受けた。

異変は早々に展開する。最初に失明した男に関わった人々が次々に視力を失ってゆくのだ。
失明した男を家へ送った男も、男の妻も、待合室にい合わせた患者たちも、そして失明が伝染するなどと信じられない眼科医もそれを調べているうちに失明した。

これはSFか?ミステリーなのか?読み始めたら止まらなかった、引きずり込まれるように読まされる。
治療の目処もつかぬまま患者は増え続け、政府は患者を元精神病院に隔離したが、事態はそんなものでは収拾しない。

突然目が見えなくなるというのはどういうことなのか、それが集団的な出来事だった場合どんなことを引き起こすのか、そこに描かれるものを読みながら考えさせられることは無限大。
そもそも失明するとはどういうことなのか。見える目で見ていないこと、見えない目で見ること、私が受け取った作者の寓話的意思は、その辺だった。

MEMO
ただ一人、失明することなく世界の顛末を見続けた人物がいた。眼科医の妻だった。教会の絵にあった眼の守護聖人聖ルチアがさりげなく符合。

ジョゼ・サラマーゴ 1998年ノーベル文学賞
<070827>







村田エフェンディ滞土録           梨木香歩

ディクソン夫人の手紙は衝撃だったし、最後には鸚鵡の叫び声が聞こえた。
ほとんど最後まで読んだところで、今まで読んできた世界の色がガラリと変わったような気がした。

今も昔も西と東が出会う街、イスタンブール。
この物語の舞台は丁度100年ほど前のその地、スタンブールだ。
日本から考古学を学ぶために留学中の村田の住まいは、いかにもイスタンブールにふさわしい下宿だ。そこはあるイギリス商人が住んでいた屋敷でかなりの広さがあり、マルモラ海を臨む眺望にも恵まれている。
下宿を営むのはその商人にゆかりのあるイギリス人のディクソン夫人、トルコにおける女性の地位の向上に協力を惜しまない。ムハンマドは土地の出身であり使用人だが、物知り顔に語る彼の諸説にはなかなか味がある。村田のほかの下宿人と言えばドイツ人のオットーとギリシャ人のディミトリス。
この国も宗教もさまざまなメンバーが寄り集まった所帯に、ある日ムハンマドが鸚鵡を拾って連れ帰る。

その時その場所で営まれていた時間は、いろんな意味で特異なようでいて、その時点では日常だった。そんな書き方が、読み手にもなにか自分の体験のような懐かしさを感じさせ、終盤にはその時代による悲しみと反省をもたらす。

人種、宗教、文化、思想…、人間それぞれ違っていて当たり前、まず受け入れることから全てが始まるし、そうしないと何も進まない。一種説明不可能な神がかりな事物も、時代を隔てた精神も、受け入れよう理解してみよう、そんなことを思わせる作品だった。

―私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない……。
<070804>







ウッツ男爵 ある蒐集家の物語   ブルース・チャトウィン 池内 紀・訳

先日、前から気になっていた手帳モレスキンを買った。
ゴッホ、ヘミングウェイなど、この手帳の愛用者の中にチャトウィンの名前を見て「あ、チャトウィンまだ読んでいない」と思い出した次第。

まず、装丁のしゃれた本だ、中身に似合っている。
ウッツ男爵はマイセン磁器の蒐集家、祖母の影響で子供の頃からマイセン磁器に魅せられ、長じてはコレクションに私財をつぎ込んでいる。戦後の混乱にも、政府の圧力にも耐えて、私(語り)が出会ったときには自宅に相当数のマイセン磁器、特に人形を持っていた。
それが1967年、あのプラハの春の前年だ。

>芸術品の所有はプロレタリアートの目から見て、いかなる罪に類するのか(p.31)

このあたりがあの時代の難しさだ。
どうやってその壊れ易い膨大な数の美術品を守り抜いたのかというのも、時代を知れば知るほどたぶんミステリアス。
本当のミステリーは最後に解明されないまま私たちにゆだねられているのだけれど、それについてはあまり触れたくない。謎だらけで読み終えても落ち着けないのだ、美術品がどこへ行ったのか、悪い想像をさせる流れの後味悪さはぬぐえないけれど、私としては闇から闇へとどこかに存在していることを、一応祈って本を閉じた。

簡潔で無駄のない文章がスマートだ。
例えばマルタ。ウッツの家の家事を手伝っていたマルタを語った部分が良かった。歯切れの良い端的な説明でさまざまを語る、想像させる。でも全部は語らない、最後まで一番不透明な存在だ。(p.87〜)

ウッツが国を出て、静養地への旅行をするくだりがある。携行した読み物が「魔の山」だった、ちょっとね、静養地へ「魔の山」だなんて。

彼の死後、蒐集品はどうなってしまったのか。葬儀までも自分の美意識に叶うよう指示をしていたウッツだったが、世の中なかなか上手く行かないようだ。

絶版が惜しい、復刊ドットコムに一票入れてこようと思っています。
<070720>








風の影 (上・下)       カルロス・ルイス・サフォン   木村 裕美・訳

物語は内戦後のスペイン、バルセロナから語り始められる。
1945年のある夜明け、10歳になったダニエル・センペーレは古書店を営む父に連れられて「忘れられた本の墓場」なる場所へ初めて行った。そこには限られた人たちだけによって守られてきたおびただしい数の本が眠っている。そして迷宮と化したその書庫に入ることを許された者は、その中からただ一冊を選び、特別にその本を一生涯守り続けるという約束があるという。全ては秘密だ。本読みには応えられないこの冒頭部分。

ダニエルはフリアン・カラックスという作家による『風の影』という本を選びだしたが、選んだというよりその出会いは運命的なもの、お互いが呼び合った結果のようなものだった。読み進むにしたがって徐々に符合を見せるフリアンとダニエルの人生がそれを物語っているが、これほどまでに関わりあう本と出合うことが出来るだなんて。

一貫してミステリアスな空気を漂わせ、青春ものでも恋愛ものでもあり、親子のかたちもしみじみと描いている。そう、父と子、母と子、現実のそれらであったり幻であったり。
内戦がもたらす暗さ悲しさは重要な背景だ。人間の描き方が一人ひとり丁寧だと思った、魅力を描ききったのはフェルミンであり、語らせたのはヌリアだった。プロットがしっかりしているので立ち戻ることなくずんずん読んでしまう。ベストセラーの所以を体感。
でも私にとってはあちらこちらに見える作者の考え方が、一番の魅力だった。「物語というのは…(作家が)自分宛てに書く手紙のようなものだ」というフレーズがあったが、文章の中にある言葉に、私自身が自分の思いを連想したり思い出したりすることがあったのだ。読書していて楽しいのは、感性の域でふと立ち止まるような瞬間なのだけれど、今回もそんなことが何度かあった。

上下巻の長編ながら一気読み通しが可能な作品だ。なーんにもしなくてよい日なんてあったら再読したいので、手元に置いておかなくちゃ。作者の和訳作品、今のところ他になし。

MEMO
「読書は個人的な儀式だ、鏡を見るのとおなじで、ぼくらが本のなかに見つけるのは、すでにぼくらの内部にあるものでしかない、…」(下巻p.411)
「本は鏡とおなじだよ。自分の心のなかにあるものは、本を読まなきゃ見えない」(上巻p.357)
「自分の愛したいと思っている人たちは、知らない人間の魂に住む影でしかない」(上巻p.302)
「…自分の人生はなんの意味もなかったって、そう納得して死んでいったのよ」(上巻p.289)
「誰かがわたしたちのことを覚えているかぎり、わたしたちは生きつづけるということです」(下巻p.359ヌリア・モンフェルトの手記)

<070702>







マリオンの壁            ジャック・フィニィ   福島 正実・訳

フィニィである。
きっと楽しかろう、とゲット。

タイムスリップものを予想して読み始めたが、今回は違いました。
むむ、幽霊?憑依? あ、まずい、独りの夜には読めないジャンルなのか?

レトロな家を探していた若夫婦ニックとジャン(そして飼い犬のアル)に、ニックの父が昔住んでいたヴィクトリア調の家を勧めた。父親が若い頃住んでいた家に30年を経てから今度は息子が入居する、そういう設定が生み出す話なのだ。

内装を自分たちで始めたニックとジャンは、壁紙を一枚ずつはがしていったのだが、1920年代と思われる壁紙の層に口紅で書かれた文字を発見した。
「マリオン・マーシュここに住めり。1926年6月14日。読んで泣き面かくがいい!」
マリオンは夢や野心にあふれ、才能にも恵まれていたがまだ無名な女優だった、そして驚くことに父の恋人だった。

二人がマリオンに興味を持つのは運命だったかもしれない。古い映画に少しだけ映ったマリオンを見たり、ハリウッドにデビューしようと意気込んでいた矢先に事故死したことを父から聞いたりしているうちに、ニックにはマリオンの霊が見えるようになり、ジャンにはマリオンが取り付いてしまう。マリオンはジャンの身体を借りて、叶わなかった自分の夢に向かって人生をやり直そうとするのだ。

大丈夫、怖くなかった。
古き良き時代のハリウッド映画に詳しかったならば、あと10倍くらい楽しめたと思われる作品。
<070620>







聖母の贈り物      ウィリアム・トレヴァー   栩木(とちぎ)伸明・訳

トリッジ
こわれた家庭
イエスダディの恋人たち
ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳
アイルランド便り
エルサレムに死す
マティルダのイングランド 
丘を耕す独り身の男たち
聖母の贈り物
雨上がり

どっかり文学している。
こんなふうに丁寧に文章をつむぐ作家に出会うたび、敬服し感謝します。
内容的には好き嫌いがはっきりしたが、後半に「好き」が集中。
「マティルダのイングランド」「聖母の贈り物」「雨上がり」がわたくしのベスト3だ。

「トリッジ」
これは無垢なる復讐? 未必の故意?

「こわれた家庭」
この作品は苦手。行き違い、勘違い、優しさのはき違い、大間違い。
時の流れがつらい記憶を少しずつ薄めてくれる、そこに小さな幸いを見出している弱者への暴力だという気がして。

「ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳」
自分の存在価値をどこにも感じられない少年。
自分自身がいないような気がするし、それだって自分のせいだと思ってしまう。
そして、いつか墓碑銘の名前の女の子と会話するようになった少年。

「エルサレムに死す」
聖職者となった兄ポールと、家業を継いだ弟のフランシス。
兄弟は聖地への旅をするが、その旅先で母の死を知ることになる。

「マティルダのイングランド」
これは戦争をはさんで描かれたちょっとした大河ドラマだ。20世紀前半までイングランドにあった農場の様子が作品の流れを豊かにしている。広々とした景色の中に田園屋敷と言われる邸宅があり、時には人々の交流にも役立っている。地主と小作のような関係かもしれない。マティルダの育った村にもチャラコム屋敷と呼ばれる田園屋敷があった。
マティルダの子供時代、チャラコム屋敷には年老いた女主人ミセス・アシュバートンが住んでいた。亡くなるまで住むことは許されていたがすでに屋敷は彼女の物ではなく、ミセス・アシュバートンはかつてこの屋敷で催された楽しいテニスパーティに象徴される過ぎた日々を懐かしんでいた。
この作品は三部から構成されていて、主人公はマティルダではあるけれど、貫かれていたのはミセス・アシュバートンの影だ。
「戦争になったら冷酷になるのが自然なのよ」

「聖母の贈り物」
口はばったいけれどさすが表題作だ、聖書を読んだような気分。
主人公ミホールに聖母が現れる。それ以降ミホールの人生はお告げに沿うことになる。
holyだし、最後がいいんだ。

「雨上がり」
受胎告知の瞬間が雨上がりだったに違いないという感覚、これだけで私はこの作品に参ってしまった。
傷心を独りイタリアの小さなホテルで癒すハリエット。
幼いころに何度も滞在したこのホテルで、ハリエットは自分に起こったことが自分自身に起因していたと気づいてゆく。今までの自分に決別しようと思う、できるかどうかより気づいたことが人としてすばらしいのでしょう? 

空気が洗われてすがすがしい雨あがりには、天使が舞い降りてくるような気がする。
<070608>






季節の中で
                  トニー・ブイ・脚本  竹内さなみ・訳

朝靄にけむる大きな蓮池に舟を浮かべて、咲いたばかりの花を摘みとる娘たち。櫂の水をかく音がかすかに聞こえるようだ。
娘たちの主人はダオ先生と呼ばれる詩人、病の為に世間から身を隠してこの蓮池の屋敷に住んでいる。

ヴェトナム系アメリカ人監督による映画『季節の中で』は、印象深い作品だった。
本作は脚本というよりは、同題の映画のノベライズ。
東南アジア特有のゆったりと流れる時間と湿気を帯びた空気が冒頭から満ちている。

白蓮
蒼夜
火炎樹

3編収められているが、それぞれの独立したストーリーが平行して展開し、部分的に関連してゆく構成だ。
ヴェトナム女性との間に生まれた娘を30年ぶりに探しに来た元アメリカ兵ジェイムズ。
観光客相手に三輪自転車の運転手をするハイと、良い暮らしにあこがれる娼婦ラン。
たくましくもけなげに生きるストリートチルドレンのウッディーたち。
登場人物は皆、少しずつほろ苦い人生を生きている。

泥の中から真っ白な花を咲かせる蓮、娘たちは摘んだ花を街へ売りに行く。
ダオ先生の池の蓮はどこよりも立派な花をつけるという。
めぐり合えた娘は、父をあからさまに責めはせずたおやかに生きていた。
こわばったランの心をハイの気持ちが溶かして行った、火炎樹とはどんな花だろう?
そう思ったとき、インターネットで気軽に調べてしまうのがもったいないような気がした。

白蓮の白、蒼夜の青、そして火炎樹の赤。
かつての仏領を舞台に、この三つの題がフランス国旗を連想させたが、思い過ごしだったろうか。
<070527>






聖なる酔っぱらいの伝説        ヨーゼフ・ロート    池内 紀・訳

「聖なる酔っぱらいの伝説」
「四月、ある愛の物語」
「皇帝の胸像」

手元に置いて愛でたい一冊だ。
特に表題作の余韻はどうでしょう。そして「皇帝の胸像」の哀しさよ。

「聖なる酔っぱらいの伝説」
一人の宿無し酔っぱらい、彼の最晩年に起こったいくつかの奇跡。アンドレアスは落ちぶれてセーヌの橋の下で寝起きする酔っぱらいだが、どことなく品があり、律儀で信心深い性格が見え隠れする。
なぜ彼が選ばれたのか、アンドレアスはある老紳士から懐加減を助けようと持ちかけられる。20フランもあればと答えるアンドレアスに、200フランはなくちゃあねと老紳士は事も無げ。でも只もらうわけにはゆかないとアンドレアスが誇りを見せると、老紳士は返す代わりにサント・マリー礼拝堂への献金を勧める。これが奇跡の始まりだった。
それからの話の中にアンドレアスの来し方が見える。
人の一生って…、そんなことを思わされる本がいくつもあるが、本作品もその一つ。

「四月、ある愛の物語」
旅の空、しばし逗留する町にそれなりのふれあいを経験しながらも、どこにいても所詮その土地の一部にはなれない流れ者。この分では目的地のニューヨークにたどり着いても落ち着けるとは思えない。

「皇帝の胸像」
この作品には時代背景がしっかりと書かれている、作品にとって大事な要因だからだ。
全般に言えることだけれど、それに加えてこの作品では特に、作者の背景を多少でも加味するのとしないのとでは読後感が違うはず。味わいに深み重みが加わる。

第一次世界大戦で環境の激変した旧ハプスブルク家の直轄領で、亡き皇帝を奉ずる老貴族モルスティン伯爵が葬ったのは<時代>だった。
>あたらしい服を着るには、わたしは年をとりすぎている
厳かなものを感じて、安易に読ませてもらってはいけないような気持ちになった。
<070514>







巡礼者たち       エリザベス・ギルバート     岩本正恵・訳

巡礼者たち
エルクの言葉
東へ向かうアリス
撃たれた鳥
トール・フォークス
着地
あのばかな子たちを捕まえろ
デニー・ブラウン(十五歳)の知らなかったこと
花の名前と女の子の名前
ブロンクス中央青果市場にて
華麗なる奇術師
最高の妻

以上12篇より

波の静かな海に浮かぶ大きな船に乗っているような気持ちの良い読後感。
森の中に住むことや、鳩を撃つことが、今のアメリカでどれだけ一般的なのかは別問題として、一見とりとめない話の中にすーっと入って行ける現実味がある。
いわゆる「ここでないどこか」のある時の話といった感覚。

わたくし的ベストは「花の名前と女の子の名前」
幻想的な一篇だった。
絵描きとして踊り子バベットに心を奪われていた20歳のころの祖父。
そのころ祖父が一緒に住んでいた大叔母はすっかり耄碌して花の名前と女の子の名前ばかりをつぶやいていた。もうそれしか思い出せないのだ。
60年経った今も、祖父にはその声が聞こえるようだ。自分を呼ぶ声や誰かを呼ぶ声が重なり合って、交じり合って。一人称をぼやかしているのが、さらに効果を生んでいる。

「ブロンクス中央青果市場にて」も良かった。
入院を機に人生を考えなおしたジミーは、ある選挙運動で職場である青果市場を走り回る。そこには仲間たちの生活があり、彼の直面する現実はなかなか手ごわい。

「デニー・ブラウン(十五歳)の知らなかったこと」は面白い。
知らなかったことの中に彼の人生がある、ということが。

「最高の妻」はファンタジーだ。
70に手が届く年になって幼稚園バスの運転手になったローズの今日のお客さんたちは、かつての恋人たちだった。いつもは園児を一人二人と迎える街角から、懐かしい顔がバスに乗り込んでくる。皆ローズと同様に年齢をかさね、車内はだんだんとにぎやかにしかも和やかにお客が増えてゆく。
<070508>






ドリアン・グレイの肖像       オスカー・ワイルド   福田恆存・訳

「芸術家とは、美なるものの創造者である。
芸術を顕し、芸術家を覆い隠すことが芸術の目標である。…」
序文にワイルドの芸術論が見える。ちょっとした迫力だ。
福田恆存の訳は古めかしさを感じさせない、重々しくて本作品にマッチしている。

重要登場人物は
ヘンリー・ウォットン卿  
ドリアン・グレイ  
画家バジル・ホールウォード、の三人。
なかなか濃密な人間関係が繰り広げられる。

影響を与えるのはヘンリー卿、受けるのはドリアン・グレイ。その二人を出会わせた最も一般的常識人のバジルも人間関係の渦中から逃れられない。

ストーリーは多少怪奇的ではあるけれどシンプルで、読む楽しみはワイルドのウンチクというか、主にヘンリー卿に語らせるいろいろだ。

「輝ける青春」と称される美貌の青年ドリアン・グレイに対する画家バジルの肩入れの仕方は賞賛、心酔であり、個人的な崇拝ですらあった。そして、彼は一番の傑作ともいえるドリアン・グレイの肖像画を描き上げたのだったが、その絵には不思議なことが起こる。
「肖像画にはそれ自身の生命がある」とドリアンは話しているが、実際にはそれどころの話ではなく、描かれた人物の内面を反映する肖像画だったのだ。

くわばらくわばら…。

気に入っちゃった表現をメモしておこう
「思想の芸術家プラトン」
「十四行詩集にも紛う彩色大理石の彫像」に「表現したのはあのミケランジェロ」p.59
ゴーチェやダンテがさらりと引用されているあたりにも美意識を感じる。

修飾語で彩られた文章は、最後までゴージャスだった。
<070426>









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