-2- 

ホテル・ニューハンプシャー
ムーン・パレス
インド夜想曲
ルネッサンスの古都をめぐるイタリア
緋色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件
銀色のフィレンツェ メディチ家殺人事件
黄金のローマ 法王庁殺人事件
レクイエム

星空の恋人たち





星空の恋人たち   チェット・レイモ 中江昌彦訳

星を愛する人はロマンティスト。
きれいな、ゆったりとした文章だ、言葉がきらきらしている、丁度星空のよう。
作者は天文学者らしい、ロマンティストが昂じて小説まで書いてしまったというところなのだろうか?

主人公フランクは小人症という身体的なハンディを負って生まれてきた。甘やかさずに接した母があり、数少ない知り合いのひとりジャック・ケリーが星の世界を教えてくれたことが、つらい境遇にありながらフランクを聡明な少年に育てていた。美に対する憧れが強く、自分は美しくないという気持が常に自分を傍観者とする、子供としては可愛そうなくらい聞き分けがよく、何かをあきらめている、多分におとなびているフランクはいつも孤独だ。
思春期にあって、どんな人にも劣等感や自分への嫌悪感に苛まれる時期がある。たいていの場合人から見れば、あるいは後になってみれば些細なことと思われても、その時の当の本人は真剣だし、取り返しのつかないこととして悩むものだ。でもフランクの悩みは並大抵のものではなかった、「自分はこれからも一生普通の人間にはなれない」と悟ったその時、世の中には「ふさわしいものとふさわしくないものがあると気付いた」その時、そんな積み重ねがフランクをより内気にさせ、より星の世界にのめりこませたのだと思う。

フランクの母ベルナデットは美しく、どこか浮世離れした様子、言葉少なく読書を愛し、何を考えているのかいないのか、不思議なしかし魅力的な存在だ。世間の決まり事に左右されず、美しさゆえに彼女に心を奪われる男達を翻弄し、誰をも息子すらも愛する様子のないベルナデットは、実は深く傷つけられた心を抱えたままその人生を流されるように生きていた。自分にとって必要な部分しか受け入れられなくなっているのだが、一種狂っていると思われるような言動も無意識に心のバランスを取ろうとしている痛々しい姿だったのではないかと思う。12歳の時、初めて恋心を抱いた次の瞬間、それを激しい不幸で奪われたショックは彼女の一生を大きく左右してしまった。どこまで確かな意識で生きていたのかわからない。そのベルナデットに確かに意志があったのは、二人目の子供を身ごもったことを知り、又その子供に第一子と同じ障害を予感した時だったかもしれない。

作者と同じ、フランクも星を愛するロマンティストだ。美の対象であるエマやジェニファーには気持ちを素直に語っている、その言葉に心を打たれました。
登場人物それぞれにいろいろ物語があり、何十年も過ぎた時エマがこんなことを言っていた。「あの当時のことを知っている人に会うと何となくほっとするの」。こう思える人生も一つの幸せじゃないかと思う。

「笑う星は君だけに見える」これはベルナデットがフランクに初めて本を贈ったときに『星の王子さま』から取ってそえた言葉です、素敵な訳です。この本を読んだ後すぐに、私は『星の王子さま』をひっぱりだして読み直しました。「肝心なことは目に見えない」とそこには書いてありました。これもよい訳です、どちらも星空でも仰ぎながら、ゆっくり考えるのにちょうど良い。
・・・・・・・・・・
随所に引用されるW.B.イエィツの詩は、読んでみたい気もするけれど、
ちょっと尻込みするな、難しいかも。でも、心にとめておこう。

<020916>




レクイエム ある幻覚  アントニオ・タブッキ  鈴木昭裕訳

意図して、母国語のイタリア語でなくポルトガル語で書かれているそうです。理由も述べられていますがその文章に対するこだわりを直接感じられないことはまず残念だけれど、しかたないですね。
タブッキの小説は多分相当に言葉が練られているのだと想像します。例えば作家が美しさを追求した文章を味わうのも読書の楽しさですが、この小説には、イタリア語が解ってポルトガル語が読める人にだけ伝わる何かニュアンスがあるのかもしれません。
七月最後の日曜日、その日主人公は記憶の中にしかいない人達に会いに出かけていった。
生者と死者の間を行き来する主人公の一日。彼の無意識の中に引っかかっている父への気持が、若い頃の父を呼び寄せる。会話の様子は描かれていないけれど一番会いたいひとであり、どうしても会えない死んでしまった恋人もやはり彼の無意識の部分にいつもいるようだ。夢であったり、暑さの作り出す幻覚だったり、亡霊と言ってしまっても良いのだけれど、生者も死者も主人公のフィルター越しだと区別がつかなくなってくる。会話に「 」(カギカッコ)をつけない文章も、混沌さに拍車をかける。
ただ、ところどころ捨て置けない微妙に違和感のある言葉があって、それが幻想の中にいることを思い出させてくれたような気がします。
「物語売り」は魅力的でした、「なりそこないの作家」だというのです。
<020906>






黄金のローマ 法王庁家殺人事件  塩野七生

ルネッサンス歴史絵巻三部作の第3巻。
「この三部作…の真の主人公は、人間ではなく都市です。」と著者は「読者に」という後書きに記しています。ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ、それぞれの都市の性格が生き生きと描かれていたと思います。私の中では"イタリアの三都市"として並列に並んでいたこれらの都市ですが、3冊読み終わってみると、ローマの都市としての重みは圧倒的でした。それは歴史の重みが多くを占めていると思うのですが、著者が別著「ローマ人の物語」で問いかけられている「なぜ、ローマ人だけが」に繋がる重みなのだろうと思います。
古代よりローマは真に国際的であり自由や平等の意識が高かった。というよりそれこそが古代ならではの気質であり、それをローマ人はルネッサンスの時代にも制度や習慣の中に引き継いでいたのかもしれません。
「ローマでは古代を思わないでは生きていく意味がない」と塩野さんは主人公に言わせています。
最後の五賢帝マルクス・アウレリウス帝の騎馬像を、カンピドリオ広場の再開発にあたって移動させる話が目に見えるようで圧巻でした。この物語の舞台である16世紀にあって、すでに遺跡である古代の巨大なその像を壊さぬように人の力で運ぶのです。重さは1トンもあり、カンピドリオ広場といえば丘の上にある。道を選びながら直線距離を迂回するその行程はどのくらいの距離になったのだろう? この計画には事実ミケランジェロが関わっていて、アトリエから絵の具で汚れた衣装のまま現れ、像の設置を指揮する様子などは思わず微笑んでしまった。

創造の登場人物のひとり、オリンピアの今まで謎だった身の上が明かされ物語が結末に向かいます、マルコとオリンピアはどうなるんだろう? 二人が通った道や住んだ家が、真の主人公である街のイメージをより鮮明に豊かにしていました。二人の恋愛物語の行く末は?
<020901>




銀色のフィレンツェ メディチ家殺人事件  塩野七生

ルネッサンス歴史絵巻三部作の第2巻。
フィレンツェとは「花の都」を意味するフィオレンツァという古い名が由来で、フィレンツェ共和国の元々の紋章はイリス(あやめ)の花だった。メディチ家による君主国になってから、六つのお団子のような(正しくは丸薬)メディチ家の紋章がイリスに取ってかわったということです。
ルネッサンスの時代に深く多方面に影響していたメディチ家の200年続く君主政治が始まった頃の物語。一巻目に比べると副題の「殺人事件」というのがうなづけます。1537年に実際に起こったアレッサンドラ公爵の暗殺が題材で、その後フィレンツェはコジモ1世により君主政治が確立してゆきます。そのきっかけとなった暗殺事件だったのですが、歴史上ではどのくらい大きく取り扱われている事件なのだろう?
メディチ家の存在は文化的なものを育てた功績もある反面、どうしても権力者が作り上げる社会という意味で、一般市民への心配りが行き届かない封建的な面がぬぐえず、ヴェネツィアに比べ民主性、平等意識などはだいぶ遅れていたことが分かりました。

例によって歴史に疎い私はどうしても違うところに気持ちを奪われてしまう、豪華王と呼ばれたらしいロレンツァ・イル・ マニーフィコが所有していた古代の食器・銀や真鍮の器が物語に登場しますが、現在ピッティ宮の美術館に展示されていると知れば見に行ってみたくなるし、鐘楼ごとに音色の違う鐘が一斉に鳴り始めるその響きあいも聴いてみたい。アルノ川に架かる姿のそれぞれ違う複数の橋が一度に見える場所があるらしく、その景色もこの目で見たらどんなだろうと思います。

大事な登場人物となる、芸術を解し、古き良きものを大切にし、学問も良くしたメディチ家の一員ロレンツィーノはイリスの香りが漂う葡萄酒を愛していた。フィレンツェでは今もそんなワインに会えるんだろうか
<020828>




色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件  塩野七生

ルネッサンス歴史絵巻三部作の第1巻です。
緋色の地に金糸で聖マルコの獅子を縫い取りしたのがヴェネツィア共和国の国旗だったそうです、それで「緋色のヴェネツィア」。
良く調べ上げられた史実に語り部とも言える中心人物を配して、歴史を身近にさせてくれました。
都市ごとにその性格が異なっている様子が、これからフィレンツェ、ローマへと読み進むうちに分かってくるのかと楽しみです。
コンスタンティノープルとヴェネツィアを往復する商いの荷物の内容やそのルート、オスマントルコの絶大な力、共和政の都市国家が抱えていた問題点、その中にあってフィレンツェのメディチ家がどのようにして続いていけたのか、歴史の理解がボンヤリしている私でも楽しめました。

ハンガリーが「西方世界に属すともいえず、かといって東方でもない」という記述がおもしろいと思いました。ブダペストに行ったとき、ハンガリー人にはアジア系の特徴や似た生活習慣があると教わったことを思い出したからです。
共和国の国政担当者が無給だった(貴族の権利と義務ながら奉仕だった)ということには単純に驚いてしまった。
「アクアマリン色のアドリア海」、「サファイアを思わせる…イオニア海」帆をいっぱいに張った大きな帆船が悠々と海を行く様子、今では見られないその様が印象に残りました。
<020821>




ルネッサンスの古都をめぐるイタリア トラベルジャーナル

カルチャーガイド<トラベラー>というシリーズの旅行ガイドなのですが、旅行ガイドを始めから一気に全部読んだのは始めてです。私としては普通ならちょっと考えられません。でも、この本はそれが可能でした。
ミラノ、ヴェローナ、ヴェネツィア、ラヴェンナ、フィレンツェ、シエナ、ローマという具合に、ルネッサンスに深く関わる有名な場所を歩くガイドですが、面白い設定がいくつかあって、そのひとつが「ツアー旅行者用」のガイドブックだということ。「ひとり旅用」「個人旅行用」のガイドは前提としてよく考えられるんですが、ツアー用というのが意外に珍しいと思います。例えばヴェネツィアではしっかり観光するには島めぐりを含めて5日はほしい、しかしツアーだとたいてい2日、多くて3日、しかも2日といっても夜に到着すればオプショナルの観光時間は実質1日。ではどこをどう見る?というような運びで書いてある、とても実質的。(ならツアーはやめておこうということにならなければいいのだけれど…)
もうひとつ通し読みできたのは2段3段組みの縦書きで、複数の書き手が項目ごとに記事を担当し、美術のこと、食べ物のこと、観光のことなど読み物風に書いてくれていること。写真も適度に入っていて説明的になりがちな内容を理解するのを助けてくれます。
知らないことはたくさんあったけれど伊達政宗の家来、支倉常長の訪伊の話は、本の中で異色で面白かった。
何気なく買った本ですが、先月出たばかりのシリーズ第1巻目の初版でした。
<020814>




インド夜想曲
  アントニオ・タブッキ  須賀敦子訳

「インドは失踪するためにあるような国」だそうです。
幻想、神秘、混沌、人の気持を迷わすような魔力は確かにイメージとしてあります。ほんの150ページの、しかも短編集なのであっという間に読み終えてはしまうけれど、ストーリーを追っているようないないような、まるで浮遊しているような気分でその時間が過ぎている。出会った人と禅問答のような会話があったかと思えば、突然夢の中に入りこんだり、読み手が戸惑うのをタブッキが楽しんでいるようだ。
友人を探しながら、自分を探している。
インドの独特な雰囲気の中で、どことなく不可解ながら不思議な心地良さを主人公と私は共有したかもしれない。
タブッキは、インドの旅の道先案内人になることを少なからずねらっている、冒頭に挙げられている12の「場所」を実際に巡ってみた人がどれくらいいるんだろうか?
読み終えた余韻に浸りながら、何となくまた頭から読みはじめていました。
最終章が特に好きです。勿論この章がなくては「インド夜想曲」は成り立たないけれど、もし、映画を作るなら…この章を描けば良いでしょう?
そしてその前の章をちりばめるんです。

連日熱帯夜が続いています、インドを味わうにはそれも良いかと…
<020810>




ムーン
・パレス
 ポール・オースター 柴田元幸訳 

冒頭からこれほどひき込まれる本もめったにありません。
「でもあの頃のことは忘れていない。それらの日々を、僕は自分の人生のはじまりとして記憶している。」最初のページでこう語り、物語は2ページ目から始まります。翻訳の妙か?文章のテンポがとても良いことに感激。

生まれた時から父はなく、母も事故で亡くしている主人公は、人類がはじめて月を歩いた春、今度は唯一血縁だった伯父をも失った。彼はその叔父さんが残してくれた膨大な量の本を端から全部読み、形見のスーツをだめになるまで着続ける。そんな形で叔父さんを懐かしみ、身近に感じようとしたのかも知れない。少々自虐的でもあるけれど、最後の家族を亡くしてしまったという心細さや絶望で、つまりぎりぎり精一杯のところで生きていた。主人公の年齢をとうに過ぎている私から見れば、その時点の主人公の若さに素直さや、けなげさを感じずにいられません。
その延長線上にある人生を放棄したような生活は、極端なように見えてそうではなく、今の世の中、ぬけがらのようになった心ではアタリマエに生きるのが困難です。精神的、物理的救済が無かったら行きつくところとして例えばホームレスのように厳しい現実がいくらでもあるように。
幸い彼にはその救済が友人によってもたらされた訳ですが、ここまでを読み終えたときは悲しさが迫って来たという感じで胸が苦しくなっていました。

その後の彼の経験や、差し挟まれるエフィングという老人の冒険譚や、バーバーという学者の書いた小説は多分に荒唐無稽ではあるけれど、主人公の人生に深く絡み合いながら成っています。
この小説には偶然が不自然とも思える程次々に明らかになりますが、ストーリーの展開のし方が巧みなせいもあって不思議とすんなり受け入れられました。「偶然は必然」ということかも知れません。

「僕の起源はひとつの神秘であり、僕はどこから来たのかを決して知ることは無いだろう―そのことこそが僕を定義していたのだ」(文庫P.421)

全体にある悲しみのトーンは、キーワードのように随所に出て来る「月」にも暗示されているようです。もう克服できたかと思っていた母への気持や孤独感が吹き出したチキンポットパイの一件には揺さぶられました。そこには現実には無かった、父と母と彼が囲む想像の小さな食卓さえ見えるようだったからです。

最後には又、主人公を成長させる出来事が用意されていて、さらに彼にはまだ成長の余地もある、青春小説ならではの感動的なエンディング。
<020805>



ホテル・ニューハンプシャー(上・下) ジョン・アーヴィング 中野圭二訳

どうして熊なの? なぜ熊がいるの? そう思いながら読み始めた。
読み終わり、熊が大切な要因だったことわかりました。
ただ、ジョン・アーヴィングと熊の関係は研究の余地ありかも知れませんね。私は未読ですが彼の処女作は「熊を放つ」という作品だからです。

ジョン・アーヴィングを読むのは始めてでした。「ガープの世界」と「サイダーハウス・ルール」を映画で観ていて、独自の世界を持っている人だと思っていましたが、なおその印象は強まりました。
突飛に見えて、実はとても現実的な生活をとつとつと語っている小説だと思います。
それぞれに強烈なキャラクターを持った登場人物をめぐり、時にはほろりとさせられる人間関係が、心の深い部分に触れる言葉が、そうだそうだとせつなくさせる情景が、「在る」。
悲しみや不幸が人には常につきまとっている、それとどんな風に向き合っているのか、又はいないのか。 寄せ付けないようでいてすっかり飲みこまれている人、見ないで済むように現実を直視できずにいる人、ひとつひとつ直面しゆっくりと吸収する人…?

突然に母と末の弟、優しさと可愛らしさというよりどころの象徴を失う彼らにはそれぞれの影響があった。それを運命の裏切りだ、幸運も悲運も何かの気まぐれな結果だと感じる兄があれば、自分への罰だと感じ思いつめた妹もいた。この妹リリーは後に作家になったわけですが、「充分に大きくなれなかった」と遺書を残し自殺します。それぞれ成長し大人になった子供達の中でリリーだけが「開いた窓の前で立ち止まって」しまったこと、そこには作家として作者の意図することがあるでしょう。

悲しみを乗り越える人達には共通して、自らの強さや人の優しさ、愛の助けが必要ですが、生きてさえいれば…。ここなのかな?
「人間というのはすばらしいもんだ―どんなことでも折り合って暮らして行けるようになる」(下巻 P.198)

三つ目のホテル・ニューハンプシャーにただよう一種の安らぎは、小説全体に目立たず貫かれていた優しさがついに描かれた部分だったと思います。
―・―
作家が作品の中で最も嫌っている部分を、読み手が一番気に入っていることがある云々の部分は興味深し。
<020729>



inserted by FC2 system