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コーリャ 愛のプラハ
森の小道・二人の姉妹
イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ
パワナ・くじらの失楽園

体の贈り物
若かった日々
フォークナー短編集
ギリシア悲劇 T

黄色い雨
遠い太鼓







遠い太鼓
             村上 春樹

ギリシャとイタリアに滞在した三年間の、文章で描かれた旅先のスケッチ。
絶対面白いだろうと思った、そして面白かった。

遠い太鼓に誘われて
私は長い旅に出た
古い外套に身を包み
全てを後に残して

題名はこのトルコの唄から取られたそうだ。
トルコの太鼓、あのオスマントルコ軍楽隊の太鼓が思い浮かぶ。
40歳を意識する年齢になったある日、作者は太鼓の音を聴き、ふと旅に出ようと思い立った。すでに作家として名を成していた作者が夫婦二人でそんな風に生活を変える。行った先でも小説は書けるし翻訳もできるから、生活の拠点をヨーロッパに移すという形だ。さすが自由業。

筆も自由だ。見たものを見たままに、感じたものを感じたように。内容も文体も作者を身近に感じさせた。一人称の「僕」や、時折出てくる「です、ます調」が新鮮だった。
ギリシャは良さそうだ。島によって雰囲気が違うようだけれど、読んでいると写真でよく見る空や海の青、街の白、のような漠然としたイメージが俄然(私の勝手ではあるけれど)細かいところまで具体的に、頭の中でいきいきと鮮明に見えてくる。
未知の土地へ移り環境を変えて、その居心地を確かめながら自分らしい生活を模索する。そうしながら内面へ思いを掘り下げていたんだろうか?なにか問いの答えを探していたのだろうか?作者がギリシャからイタリアへ居を移すときの話「ミコノス撤退」が好きだ、良い文章だと思った。

イタリアではシシリーとローマに住んでいる。
ジョギングが理解されない話や慢性的な駐車場不足のエピソードでは思い切り笑わせてもらった。そして歩き方と世界観がちがうメータ村に行ってみたいと思ったし、そこの出身のウビさんみたいな人に会ってみたいと思った。

全体にギリシャの緩やかな時間がすてきな一冊だった。
強い日差しや土砂降りの雨も心に残っているけれど、印象は暖かい。
人の温かさなのかもしれないし、書き手の気持ちが伝わってきたからかもしれない。
<080303>








黄色い雨
          フリオ・リャマサーレス   木村 榮一・訳

廃村になったアイニェーリェ村。
主のいなくなった家はとたんに傷み始める。錆、黴、苔、白蟻、雪の重みや雷などが容赦ない。手入れをしなければどんどん壊れて行く家々、それはつまりは村全体の崩壊に繋がる。元々そんなふうに自然の厳しいところなのだ。

冒頭は最後の住人であった主人公の魂の語り。
自分のなきがらを探しにやってくる隣の村の住人たちの描写だ。
その様子を俯瞰するようにして語る主人公は、すでにこの世を去っているようだ。

と、話は孤独の始まりへとさかのぼる。
村民は徐々に減ってゆき、とうとう最後の隣人が村を去るとき、主人公とその妻サビーナは別れの挨拶ができないほどに打ちひしがれた。
そしてそれから間もなく、寂しさと失意のうちにサビーナは自殺してしまう。
最後に残されたのは主人公と雌犬が一匹だった。
それからなんと10年の間、主人公はたった一人で村に生き続けた。

妻が亡くなったその日、彼はそれを果樹園の一本の木に伝えた。これほどまでに孤独なのだと私はショックを受けた。でも彼が息を引き取った時、誰が誰にそのことを伝えるだろう?人知れず死ぬかも知れないという恐怖、もしかしたらそれが孤独のきわみかもしれないと思った。どんな状況にあっても、老いて死が近づけば近づくほど身に迫る感情だと思う。

彼は亡霊を見た。死んでいった人たちが戻ってきていた。これほどの孤独の中では亡霊にすらしっかりとした存在感を感じた。

題名に使われた「黄色」はポプラの枯葉の色らしい。死がイメージされている。
木々は下弦の月夜には眠っているという挿話があった。その時なら木は自分に斧が振るわれたことに気づかないと言う。そんなふうに苦しまず、知らないうちに死ぬ事ができたらという意思がある。

彼の死支度、気持ちを少なからず支えていた雌犬についてのエピソードは辛かった。
壮絶な幻想小説が、詩的な文章で書き上げられていた。
強烈だった。
正直言って滅入る、こんなふうに死を考えることはおろか、その準備もできていない。
できれば魅入られたくない、でも目が離せない。
えらいものに出会ってしまった、という読中読後感。

表紙の絵が大好きだ。
<080225>





ギリシア悲劇 T              アイスキュロス    

縛られたプロメテウス    呉 茂一・訳
ペルシャ人           湯井壮四郎・訳
オレステイア 三部作    呉 茂一・訳
  アガメムノン
  供養する女たち
  慈しみの女神たち
テーバイ攻めの七将     高津 春繁・訳
救いを求める女たち     呉 茂一・訳

訳あってアイスキュロスはいずれじっくり読みたいと思っています。
でも、調べながら読むにはあまりに知らない事が多くて、どこまで調べたらいいものやらといった状態なので、今回はざっと読みました。
印象は第一に格調高いこと。
屋外の円形劇場で浪々と語られる台詞、歌われる調べ、白い長着をまとった登場人物や舞台の様子を想像するのは楽しい。

面白かったのは「縛られたプロメテウス」
ここに出てくるプロメテウスは、心優しい巨神だ。人間は感謝しなくちゃいけない。
その後のプロメテウスはヘラクレスによって自由になるわけなのだけれど、三部作のはずがこの第一部しか現存しないのが残念。

「オレステイア」は完全な形で残っている数少ない作品と知ったので一番熟読したいのだけれど、恨みの連鎖は正直楽しめない。一つひとつには訳のある、止むにやまれぬ出来事が新たな悲劇を生んでゆくわけだ。
子(娘)殺し、夫殺し、そして親(母)殺し、と悲劇のてんこもり。
でも最後には終焉というか多少の救いが見えた。裁判なんかも出てきて面白かった。

ギリシャ悲劇はギリシャ神話の範疇に含まれると考えていいだろうか。区分はできないと思うから。
<080218>







フォークナー短編集    ウィリアム・フォークナー  龍口直太郎・訳

実は前から積んである長編『八月の光』を読む前に、短編集を一冊と思ってチョイスしたけれど、一編ごとに読み終えても何かを読み落とした気分にさせられた、でも、そう思いながらもこの魅力はどうだろう。

フォークナー作品は長編短編を問わず、作品同士に何らかのつながりがある事が多いらしい。例えば「エミリーにバラを」と「バーベナの匂い」にはサートリス大佐、または「バーベナの匂い」と「孫むすめ」にはサトペンという人物が登場する。「あの夕陽」のコンプソン家の面々はのちに『響きと怒り』でその後の姿を見せるようだ。

嫉妬
赤い葉
エミリーにバラを
あの夕陽
乾燥の九月
孫むすめ
バーベナの匂い
納屋は燃える

「孫むすめ」終盤に向けてのものすごさよ。人権とか差別とか、そういう認識とは別の感情的な衝動が迫力に満ちている。
「納屋は燃える」もズンと迫るものがある。父が現実から身につけた生き方。良識と父への愛情とで葛藤する息子。
この2編の印象が私には強かった。
「エミリーにバラを」と「乾燥の九月」には同種の匂いがする。
黒人や女性に対する差別、そしてまた白人同士の中にも生まれる格差、アメリカの苦悩する部分。
<080209>






若かった日々             レベッカ・ブラウン  柴田元幸・訳

両親を、両親への思いを、そして両親の死を、あわせて若かった自分を、今だから書けるという気持ちが込められているのか。原題 “The End of Youth”
書かずにはいられなかったのだと思うと同時に、こんなふうに書けるんだと驚嘆する。

父は三人目の妻と住んでいた家で突然亡くなった。死顔にも会えなかった。父の骨は未亡人さえ立ち会えないところで海に撒かれた。その様子を彼女は夢想する。父への気持ちはいたるところに書かれていた。最後の時の父が「幸せに見えることはわかる。」そう断言できる幸せ。

母は家族に囲まれて静かに少しずつ亡くなった。意識が遠のき、呼吸が浅く不規則になってゆく時間を姉や彼女は一緒に体験し見守った。母の最期の呼吸の後には「何かが行ってしまった音」だけがした。

「右目がもろに頭の中を見ていた」
幼いころ斜視だった自分についてこんなふうに書いている。実感できないがすごい表現だと思う

天国
見ることを学ぶ
暗闇が怖い

ナンシー・ブース、あなたがどこにいるにせよ
A Vision
煙草を喫う人たち
自分の領分

母の体
私はそれを言葉にしようとする
受け継いだもの
そこに

真であり同時に否である心をつぶやくような文章。
例えば語りなら身振りや表情、間で表現される、相手に読み取ってもらう部分を文章のみで、それもさりげなく顕すにはどれだけ繊細な注意が要ることか。
その翻訳の難しさにも思いが至る。
<080204>







体の贈り物             レベッカ・ブラウン  柴田元幸・訳

エイズ末期患者の在宅介護を手伝うホームケア・ワーカーの立場で綴る11編。
死はすぐそこにあり、避けられない現実であるだけに、本音で向き合うしかない。

汗の贈り物     
リック シナモンロールを買いに行く彼の様子 彼は希望をこめてこの食卓をしつらえたのだ
 
充足の贈り物    
ミセス・リンドストロム 「コニーと呼んで」 乳がん 入浴

涙の贈り物     
エド ホスピスに入りたくない 「わからない、わからないよ」 顔も目も真っ赤にして泣きたいのに涙が出ない 泣けない

肌の贈り物     
カーロス 清拭

飢えの贈り物    
コニー 娘家族からの小包 食べられない苦しみ

動きの贈り物    
エド ホスピスに入ったエド 生きたままホスピスを出て行ったスーパーエド 「ごめんよ、この頃感じ悪くて」

死の贈り物     
マーティ 逝ってしまったカーロスの恋人 死は救いになりうる

言葉の贈り物    
リック I miss you.

姿の贈り物
キース 軟膏を塗るしか 

希望の贈り物    
「誰か知りあいが病気だと知るのは、病気だから知りあった人の場合とは違う」 「もう一度希望を持ってちょうだい」

悼みの贈り物    
コニー逝く 「みんないるよ。コニー。いつでも好きなときに行っていいよ」

弱々しく敏感で傷つき易い患者と、医者や看護士とは違う立場で触れ合うこと、目の当たりにすること。
いろいろ書けない、体験を基にしているとはいえ、よくここまでありのままを飾らず書き過ぎずにしかも暖かい心で表現できたものだと思う。
<080203>






パワナ・くじらの失楽園     ル・クレジオ     菅野昭正・訳

盲目のインディアン、ナティック爺さんの語る記憶。あれは過去の別世界。

1856年1月10日午前6時。
船長がその場所を発見したのを境に、神秘の場所は以後取り返しのつかない殺戮の場に変わってしまった。
それは鯨が子供を産みにやってくる、そして老いた鯨が死んでゆく特別の場所。

ナティック爺さんの話を聞いて海に憧れる少年ジョンと、ジョンが始めて乗り組んだ船の船長チャールズ・メルヴィル・スカモンが語り手となる。
その潟湖には発見者スカモンの名前が付けられている。当時は名誉な発見だったかもしれないが、今となっては打ち消してしまいたいような歴史上の事実。

ル・クレジオの作品は感じる空気が澄んでいる。
<080125>






イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ
                    トルストイ   望月哲男・訳

死の終わりと死の始まりを見た。

「イワン・イリイチの死」
イワン・イリイチ、45歳、控訴院判事。前途洋々のエリートがある日身体の変調を自覚する。症状は悪化するばかり。死に掴まってしまったのだ。
その事実はなかなか受け入れられるものではない。「カイウス(カエサル)は人間である。人間はいつか死ぬ。したがってカイウスはいつか死ぬ」この三段論法は認められても、自分のこととは早々結び付けることはできない。

他人がいともたやすく処理してしまったある男の死が、本人にとってはどんなものだったのか。「死は終わった」これはすごい言葉だ。最後のこの一言が全てを言い尽くしている。

「クロイツェル・ソナタ」
大いなる普遍性というのか。
嫉妬絡みで妻を刺し殺した夫の独白、とこんな風に書きたくはないのだけれど、そこを軸に結婚、宗教、道徳といったものの思想が読み取れる。楽しんだかと言われれば、残念ながら否。でも印象に残ったのは、語った男の最後の表情だ。
実質的にはもっと以前から殺していたなどと言いながら、妻の死顔を見て初めて殺してしまったことを認識した彼にとって、妻の死はここから始まったのかも知れない。
旅の道連れに見知らぬ他人から聞かされる話、という設定が効果的だった。
<080113>







森の小道・二人の姉妹       シュティフター     山崎章甫・訳

いつに変わらぬ端正さはシュティフターの世界。
シュティフターの小説は彼の描く絵を、絵はかれの小説を、そのままに表している。繊細で丁寧で、すがすがしい。

「森の小道」
主人公ティブリウスは、両親や家庭教師そして叔父などの良くない影響で、育った環境に恵まれず、変人と呼ばれながら自らも世間を狭くして生きていた。そのティブリウスがある森の小道で出会った娘とその父親との交流を通して生まれ変わってゆく。

未知のものから何かを感じ取り自分を成長させてゆくには、それを受け入れる普段の生活態度や考え方の準備も必要だけれど、資質として素直で柔らかい心が大切だと思う。

「二人の姉妹」
これは読ませます、シュティフターにしては珍しくグイグイという感じです。
他の作品より人物の個性が多少はっきり出ているように私は感じたけれど、それがその理由かも知れない。最終的に何かと帳尻が合い過ぎるきらいがあるのには、目をつぶって味わいましょう。

かつて互いに旅先のウィーンで出会ったリカールと私(オットー・ファルクハウス)。
後年オットーがリカールの住まいを訪ね、二人が再会するところからストーリーが展開する。その間オットーは青年から一人前の大人になっていたが、当時から病身だったリカールはその前後にあった災難で財産をなくし、たった一箇所残った山奥の土地でささやかに暮らしていた。
一見不幸に見えるリカールだが、暖かい家族にささえられ、心豊かに暮らしていることは次第に見えてくる。家族とは妻と二人の娘たちだった。
この家で手厚いもてなしを受け滞在するうちに、オットーはかつては知りえなかったリカールや家族のこれまでの話を聞いた。

姉妹のうち姉のマリアはストーリー上ヒロインといえる、意思を持ち行動力もある魅力的な女性として描かれている。そしてもう一人、隣家のアルフレートの言葉や考え方は最もシュティフターの心に近いと思われる点で重要人物。
人間を含む動植物へのまなざしや、地球と人類の変化への気付きなどは、150年を経て今読めばはっとさせられるような洞察力だ。
<080111>







コーリャ 愛のプラハ    ズデニェック・スヴェラーク   千野栄一・訳

作者はシナリオライターだがこの作品はシナリオとは言いがたい。
でも、映像になることを前提に書かれた一冊。
映画も印象深いものだったけれど、小説もなかなかです。しみじみと暖かい。

プラハといえば「プラハの春」なのだけれど、せっかくの民主化もソビエトの軍事介入で足踏みの上逆戻りという憂き目をみたのでしたね。でもやはり時代は動いていて、チェコスロバキアは1989年に民主化革命をやり遂げました。その後チェコとスロバキアに分かれたのですね。これは民族が違うみたいなのです、言葉も?
私は1991年にプラハに行ったのですが、このくらいしか解っていません。
とにかくついこの間まで暗い時代を過ごしていた国なのですが、何せ歴史があって街の家並みも郊外の自然もとびきりに美しいのでそちらに目を奪われます。

さて、物語の時代背景はそのビロ−ド革命と呼ばれる民主化が成ったころのことらしい。映画の画面はなーんとなく暗かったと記憶します。
主人公は中年独身のチェロ弾きのロウカ。今は貧乏楽士。華やかなステージの仕事などないので教会での葬儀に演奏などして細々と暮らしている。墓碑銘の修復の副職も自分で注文取りまでこなす器用さはあるけれど、どことなく情けない印象だ。
でも本人はそれほどこたえていないのかもしれない、塔のように高いところにある部屋にはハトがやってくる、いろんな女性とつき合ってある程度一人住まいの気楽さも楽しんでいるようだ。

そのロウカが、ロシアから西へ亡命を希望しているロシア女性との結婚話を持ちかけられる。書類上だけの偽装結婚だったが、これを受けた彼の生活が激変した。女性は5歳になる息子コーリャを置いて国を出てしまったのだ。
いろいろな状況からロウカはこの見知らぬ子供を見捨てる事ができなかった。そして二人のぎこちない交流が始まったのだ。

コーリャはけなげだ、身寄りが無くなってしまった上に、言葉が通じない。ロウカだってどうやって子供と接したらいいのかわからない。
でも子供を持たない男と男の子っていうのは、年齢に関係なくどこか精神的に同等に付き合うものなのかもしれない。手探りしながら愛情をそそぐロウカ、受け入れて命を繋ぐコーリャ。

シャワーのハンドルに耳をつけて電話のようにおばーちゃんに話しかけるコーリャ、犬と遊びながらおとなしく待っているコーリャ、電話で母国語の物語を聴かせてもらったコーリャ、五歳の誕生日に小さなバイオリンをもらったコーリャ…そして。
<080109>





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