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安南―愛の王国
アブサン・聖なる酒の幻
時の主人(あるじ)
神を見た犬
マイナス・ゼロ
美しい夏
旅の終わりの音楽
エヴァ・ライカーの記憶
航路 (上・下)
風の琴  二十四の絵の物語 
クリスマスのフロスト





クリスマスのフロスト
                R・D・ウィングフィールド   芹澤 恵・訳

イギリスの地方都市デントンの名物警部ジャック・フロストが主人公。
なんと彼はプロローグの2ページ目、頭部に銃撃をうけ床にうずくまった瀕死の状態で登場する。なんなんだ、こりゃ!?意表を突くではないか。

ストーリーはおもむろに4日前の日曜日に遡って始まる。
そして一日づつ、フロストとデントン警察署の様子を追ってゆくのだ。
クリスマスが近いデントン警察管内で、日曜学校から帰宅しない少女の失踪に続き、次々と事件が起きる。少女の捜索をしているはずが思わぬ死体を発見してしまうのだ、それも複数で抱える事件は増えるばかり。

ここで触れなくてはいけないのがフロストのお人柄。
ヨレヨレのコートに茶色のマフラー、灰が落ちそうなたばこをくわえ、髪の毛なんかくしゃくしゃで絡まっていそう。まず外見は気にしていない。忘れっぽくて、不必要と考える部分は故意に完全手抜き。机の上は書類の山で、イギリス人だからジョークは言うが上品とはいえない、むしろ。
調書を作ったり、報告書を書いたりするのは面倒だから手柄は要らない、逮捕は譲ったりもする。それより真実を知りたい、事件を解明したい、犯人を突きとめたい。
目的に向かって直滑降だ。24時間仕事にまい進して、周りの迷惑や規則や状況判断は二の次だから、周囲は困惑、上司は激怒。でも同僚や部下からは認められているし、愛されてもいる。だらしがなくて野暮ったいのに、カンで真相をたぐり寄せるようなところがあって、洞察力があり、そういう意味でキレるところがカッコいい。
人間くさいから親しみを感じる。不器用で失敗はするし、愚痴も弱みも人前でつぶやいてしまったりする。でも捜査の軸だけは揺るがない、彼のやり方は貫かれている。

周囲だけじゃない、読者だって悩ましい本心をちらと見せられると、その弱々しさに哀愁があって、いろんなことを許してあげたくなってしまう。
かくも非凡なフロスト氏のキャラでほぼ90%は作品が出来上がっている。
フロストばかりでなくほかの登場人物も性格がうまく描かれている、だから楽しい。

面白かった。
突き抜けている。
クリスマス前に読みたかった一冊。
一年積んでしまったけれど、読めてよかった、楽しかった。
でも、瀕死のフロストはどうなる。
<081222>









風の琴  二十四の絵の物語       辻 邦生  

「十二の肖像画による十二の物語」と「十二の風景画への十二の旅」の合本。
出版社から絵画の鑑賞と解説を依頼された作者が、美術史研究家とは違う小説家という立場でその依頼に応えて生まれた作品ということらしい。しかも作者は絵画を説明し物語るというのではなく、その作品から感じるものを一つひとつ小さな物語にして表現されている。こういう形の短編集って、今まで読んだことがあっただろうか?
時には作者と読み手の感じ方が違うこともあるかもしれない。でも印象が近ければ物語を読むことによって絵に対する感動も膨らみさらに深まるという趣向。

肖像画をめぐる物語の題名を見ると「欝ぎ」「妬み」「怖れ」「疑い」「傲り」「偽り」…といった具合で、敢えて心の底の暗く危うい部分をあぶりだしているようだけれど、同時に見えてくる人間らしさには絶妙のさじ加減で暖かさが感じられる。
<081126>







航路 (上・下)       コニー・ウィリス     大森 望・訳

臨死体験を正面から扱っている小説、それだけで作者は勇気がある作家だと思った。
いったいどんな風に取り組めるだろう?

ジョアンナ・ランダーは認知心理学者。臨死体験者への直接インタビューで地道にデータを積み上げて、臨死体験を科学的に解明しようとしている。
神経内科医のリチャード・ライトは被験者に臨死体験に似た状況を作り出して、その時の脳内のメカニズムを探り、医学的に活用できるまでにしたいと思っている。
ふたりと常に対極の立場に立つのが臨死体験を死後の世界の存在証明に利用している作家のモーリス・マンドレイク。

実際には相当な調査を基に書かれたに違いない。でも私の場合は化学や医学に明るい人ならどんな風に読むだろう?と思いながら、荒唐無稽な(というより近未来的か)設定も現実的な科学の常識も、あまり考えずに程よくスルーして読んでしまった。

感動巨編だった。
ジョアンナの親友のヴィエルはERの看護師、メイジーは心臓病で臨死体験者の少女。心に傷を持つキット・ガーディナー。またはアルツハイマーを患って独自の世界をさまよっているブライアリー先生やすっかりマンドレイクの誘導尋問に載せられている臨死体験者のミセス・ダヴェンポート。その他、多彩な登場人物が配されて、ストーリーは目いっぱい膨らんでしまい、収拾がつくだろうかと途中で心配になったくらいだ。
でももちろん全員に配役の意味があり、ストーリーはある一つの終結を見た。

浮遊した状態で横たわっている自分を見たとか、お花畑やトンネル、亡くなった人に会えた話など、臨死体験の緒説。そこには生きている者が作り出す希望的真実もあるけれど真実は人それぞれ。
<081113>





エヴァ・ライカーの記憶    ドナルド・A・スタンウッド   高見 浩・訳               
1941年のハワイ。
ノーマン・ホールはあるおぞましい殺人事件に警察官として遭遇するが、これが時代も場所も遠く離れたタイタニックの沈没事故との関わりの始まりだった。ちなみにタイタニックの事故は1912年4月14日、北大西洋カナダ沖で起きている。

後年警察勤務をやめて執筆活動をしていたノーマンは、1962年ある大富豪ウィリアム・ライカーが海底に沈むタイタニックの遺留品探索事業を始めるにあたって、雑誌の仕事を依頼される。
しかし取材が進むと、浮かび上がってきたのは思惑と違うものだった。タイタニックの大事故の影に、船もろとも闇に葬られてしまったひとつの事件があったのだ。

題名にあるエヴァ・ライカーはウィリアム・ライカーの一人娘だ。なぜウィリアム・ライカーは巨費を投じてまで50年を経たタイタニックの遺留品を探索しようとしたのか。

謎解き、アクション、スピード感、犯罪、復讐、セラピー等など、盛りだくさんの要因があって、これは結構映画向きの作品といえるかもしれない。
細かい話ながら、補給船は興味深かった。港の沖に錨をおろした豪華船に対して、給油ではなく物売りも含めた物資の補給があるというのだ。三等船室あたりでは乗客の出入りもあったらしい。超豪華大型船の周りに、小さな補給船や物売りの船が集まる様子を想像するのは面白かった。

MEMO
この作品では楽師ウォーレス・ハートリーは実名で。
日本も出てくる。小石川は懐かしい地名なのでちょっと嬉しかった。
<081020>







旅の終わりの音楽   エリック・フォスネス・ハンセン   村松 潔・訳

いつから積んであっただろう?
読まぬまま去年文庫化されてしまったクレスト・ブックスをやっと手に取ったのだけれど、この本、新潮社HPのクレスト・ブック既刊リストになぜ載っていないのでしょう?
かのタイタニック号が事故を起こしたとき、沈没の恐怖の中で最後まで音楽を奏で続けた楽士たちがいた。そこにスポットをあてた物語ということで興味を持った。長いこと積んであったのは分厚くて(ほぼ4cm)「わたくし的とっておき感」があったからでもあると思う。

豪華客船に乗り組んだのは7人の楽士たちだった。乗組員というわけではではなく乗客でもない立場で大事に直面したとき、彼らは彼らの出来ることをまっとうするしかなかったに違いない。そういう姿を読みたかった、これが本音だ。
でも、本書のアプローチの仕方はちょっと違った。楽士たちの来し方を描いていた。どんな人生を経てこの職を得たのか。この部分は名前も含めて作者のフィクションだと最後に記されているが、必ずしも幸せな人生だったわけではなかった。作者はそう描いた。
誰一人としてこれがこの船の最初で最後の航海になるなどと考えてはいないのに、不運にひきよせられるような雰囲気。

7人中、年齢も出身も違う5人の楽士のストーリーがほとんどのページを占めていた。その部分は読み本として読み手の欲求は満たしてくれた。残念なのは読み進むにつれ徐々に単調さを感じたこと、もちろん話は全く違うが、どことなくリズムや展開が似通っているのかもしれない。

氷山に衝突してから沈没に至るまで、本書ではあっという間だ。
実際に照らした主だった事項が並べられている。
この非常時にいくらでも物語りは作り出されそうだが、あえて淡々と。

最後にリ−ダーが選んだ曲はヘンデルの「ラルゴ」だった。
「オンブラ・マイ・フ」とよばれている曲だ。
そしてその演奏はある瞬間、悲鳴、破壊音、摩擦音など、あらゆる轟音にかき消されていったのだ。やはりタイタニックだ、悲しく、劇的。
<080930>






美しい夏          チェーザレ・パヴェーゼ    河島英昭・訳



美しい夏は、夢見る季節か。
過ぎ去った季節だろうか。
キラキラとまぶしい季節なのか。
重苦しく早く駆け抜けてしまいたい季節なのか。
いずれにせよ短かくて。

ジーニア16歳、一人前に生きて行くことが理想だ。その具体的なイメージは身近にいる誰かでしかないが、同い年の友達も一緒に暮らす兄も彼女には物足りない。
彼女が憧れたのは、少し年上でしかもその年齢差以上に大人びて見えるアメーリアだった。

アメーリアに影響を受け、その仲間を相手に意地も張り、嫉妬も覚え、恋を知っては傷つきもするジーニアだが、でもアメーリアにしても手探りで精一杯背伸びをして生きているに過ぎない。
多分ジーニアもアメーリアも普通に生まれ育ってきているはずなのに、大人になってゆく少女たちの夏は、残念ながら感心できる方向を向いているとは思えない。
なにが彼女たちをそうさせているのか。
<080927>







マイナス・ゼロ                 広瀬 正

昔から有名だったそうですが知りませんでした。

最近復刊されてから評判がいろいろ目に入るようになった。絶版時代も古書にはたいそう高値がついて、復刊が待たれていたそうだ。面白そうだし、そう聞いては是非読んでみなくては。
図書館に予約したのはいつだったか、でもたしか3番目くらいで順番がまわって来たはず。
メールをもらってすぐに受け取りに行った。二冊のうち昔の版(昭和57年の第一版)に当たったのはちょっと思惑違いだったけど、改訂新版を買おうかなと思いつつ、書店に行く間もなく読み終わってしまった。
面白かった。
カバーの絵は、和田 誠さんですね。

日本にもこんなに面白いタイムマシン物があったんだ(というほどSFに詳しくはないけれど)、となんかとてもいい気持ちで読んでいた。

終戦直前の東京。中学生の浜田俊夫少年は、空襲のさなか隣家の先生から今わの際に頼みごとをされる。
「1963年5月26日午前零時、研究所へ行くこと」
忘れないように手帳に記して、俊夫は成人した。

私はタイムスリップものは好き。
本当はあからさまタイムマシンというよりジャック・フィニィの描くような時間や感情が交差するといったストーリーが好みだ。でも今回楽しませてくれたのは日本人が共通して浸ることができる懐かしさなんだと思う。時代はさかのぼってもせいぜい昭和初期なので映像や記録や聞いた話で得た知識があれば、未体験の時代にもノスタルジーを感じることができそうだ。

異時代の人とどこかですれ違っているかもしれない、会っているかも、もしかしたら話しているかもしれない。そんなことを思わせてくれる感覚が好きだ。 

作者は48歳という若さで亡くなった、解説では星新一さんが、もっと書いてほしかったとその早い死を惜しんでいる。作品は順次復刊されても下記の6冊らしい。

マイナス・ゼロ
ツィス
エロス
鏡の国のアリス
T型フォード殺人事件
タイムマシンの作り方
<080920>







神を見た犬         ディーノ・ブッツァーティ    関口英子・訳



「天地創造」に始まり「この世の終わり」で閉められる短編が22話。
解説によればブッツァーティ氏は小説のほか戯曲、児童文学、詩、評論など多方面で執筆活動をされているが、経歴に新聞記者というのがあった。ご本人も「ジャーナリズムは、わたしにとって、けっして副業ということではなく、私の仕事のひとつの側面なのである。」と話しているそうだ。
解説者(訳者)の指摘は腑に落ちる。それは
「文学とはまったく対極にある、三面記事を書くのと同じタッチで幻想の世界を描く」
ということだった。

天地創造  
面白いことを考える人だ、私はすっかり好意的に。この作品で冒頭のごあいさつといった感じ。

コロンブレ
餌食にする人間を選ぶサメ。選ばれたら逃げられない、むしろ引き寄せられてしまう。

アインシュタインとの約束
「おまえが発見しようとしていることなど、あの世に行けばすぐにわかる。」には笑ってしまった。そんなぁ、身もふたもなきおっしゃりよう!
でも、この話はブラックだ、「私が、何をしらないと?」ニュージャージー州プリンストンでの話。

戦の歌
愚かな征服欲。

七階
こんな夢を見たら落ち込む。

聖人たち
のどかな話だ。作者の描いている聖人の住む世界は、ほかでもこんな風に描かれていた。この一編に私はもっともイタリア人らしさを感じた。

神を見た犬 
原題 Il cane che ha visto Dio. まさに「神を見た犬」
表題作、やはり一番印象に残っている。日本流に一口で表すと「おてんとうさんはお見通し」というところか。宗教は良心という一面、いやこれこそ宗教とすら。

護送大隊襲撃
山賊の話なのに、終盤がやけに美しくて。

秘密兵器
国名は実名で名指し、笑っていられない怖い話だ。
いつ書かれたのだろうと気になった、ちなみに1966年発表。
冷戦はひとつの歴史、でも今現在も非現実的な話題ではない。過去の話ではない。

天国からの脱落
「天国の最大の欠点は、さらなる希望が持てないということだ。」(p.265)

驕らぬ心
チェレスティーノという隠修士と、人生の折々にチェレスティーノを訪ねる元司祭の話。これは好きだ。オチは早くにわかってしまうけれど。
<080902>








時の主人(あるじ)     クリストフ・バタイユ  辻 邦生・堀内ゆかり・訳

文明開化のころの日本に、夕方になるとガス灯に灯をともしてまわる仕事があったそうだ。
ハイカラな憧れの職業のひとつだったのではないかと、それを聞いたとき思った。
それは飛脚のような丈夫な足を持ったいなせなおにいさんの仕事だったかもしれないし、重々しく威厳を感じさせながら灯をともすのはちょっと偉いお役人だったかも知れない。もっともどちらも私の想像ではあるけれど。
ある屋敷で真夜中に時計の時刻を合わせて歩く本書の「時の主人」とイメージは全然違うのになぜそれを思い出したのだろう?


昔の時計は日に一度ネジを回さなくてはならなかった。しかも一日単位で時刻が狂ってしまうものもあっただろう。
名前もわからないし、どのあたりにあったかもわからないある公国の支配者ゴンザーグ伯爵邸にはそんな時計が200以上も受け継がれ飾られていた。
時刻をあわせ、修理や掃除もする時計職人が「時の主人(あるじ)」と呼ばれ、特に重んじられているわけではないけれど、なくてはならない存在だった。
この本で味わうのは幻想的な雰囲気で充分だった。満ち足りない日々を過ごす若き伯爵は、彼が領地を受け継いでから三人目に時の主人の職に就いたアルトゥーロと身分を越えて馬が合ったが、ストーリーを追ってもむなしさが残るだけだ。思い出せばその雰囲気の中に現実味のあるものとしては、けだるさ、裏切り、悪、嘲笑といった心地よくないものばかりが漂っていたという印象だ。でも幻想的なひとつの世界があったことも確実で、読んでいた間はすっかりその世界に入り込んでいた。 

語り部は第三者の元外交官。
冒頭の述懐は、この物語が遠く忘れ去られたある時代のひとこまだということを思わせる。
幻想と現実的なできごとを交互に見せられるような不安の中に時だけは刻まれていた。それは次第に死が広がってゆくということだった。


この雰囲気をバタイユワールドとするならば、一作目「安南」から「アブサン」そしてこの「時の主人」へと、その度合いは深まっている。

MEMO
取るに足らぬと人間が判断することに、自然は苦しむのだ。(p.146)
永遠を意図する者は、近づく自分の死のみを考えているのだ。(p.187)
<080828>







アブサン・聖なる酒の幻  クリストフ・バタイユ  辻 邦生・堀内ゆかり・訳

作者が「アブサン」という名前の響きとそのイメージに触発されて書き上げた作品だと想像する。

序章は序章でありながら、まるでひとつの小さなお話のよう。戦地の地下倉庫で乾いた花びらが詰まった布袋を見つけたジャン・マルデは、その後アブサンと人生を共にすることとなる。
アブサンとはその麻薬にも似た作用のために、1915年には製造、流通を禁じられた幻の酒だ。そんな背景が存在自体を幻想的にしている。

序章の後はアブサンをめぐる話が、語り手「私」の子供だったころの記憶という形で描かれている。アブサンを作り出す工程は子供の目には魅惑的な作業に映り、神秘的でもあったに違いない。しかし大人になった「私」が懐かしいアブサンの作り方を調べてみると、書物に残るそれらは「私」の記憶とは全く違っていた。
あの「アブサン」は記憶と共に幻となってしまったのか。

アブサンは角砂糖にしみこませて味わうらしい。色は淡い緑色で苦味とつんとした匂いがあるらしい。
茎は銀がかったつややかな緑、葉は表が白で裏は灰色、そんなリンドウがあるんだろうか。私はこれからリンドウを見るたびにこの物語を思い出すかもしれない。

暑いさなかの読書。
この作品に絵のインスピレーションを受けたことを記憶の為に告白、実を結ぶかどうかは不明。 
<080827>








安南―愛の王国    クリストフ バタイユ   辻 邦生・訳

Blog友、zefiro04さんのイタリア乱読&鑑賞生活で知った本作、訳者が辻邦生さんとあれば是非読みたいとまず思った。はたして簡潔な美しい文章。

全ては幼くして他国フランスで孤独に逝ったヴェトナムの皇帝が発端となる。皇帝の名はカン(景)。カンの母国では反乱や領地争いがあって、父であり摂政でもあったグエン・アイン(実在の人物)はシャムに亡命し、援助を求めるためカンをフランスへ送ったのだった。しかしフランスにはかつての強国の影はなく、当時の王ルイ十六世にはもうそんな力も野望もなくなっていた。グエン・アインの望みは一笑に伏され、カンは行き場を失い、程なく寒さから病死する。1787年。
 ああ、なんとヴェトナムは遠かったことだろう!(p.16)

この不幸な皇帝カンをカトリック教徒として葬ったのがピエール・ピニョー・ド・ブレエーヌ(モデルの人物あり)だった。そしてブレエーヌはカトリック教会の後押しを得て、宣教師と兵士をヴェトナムへ送り出した。

苦しい長旅の後ヴェトナムに着くと、宣教師たちは兵士と袂を分かち、農民たちの生活になじむ努力をして信仰の道をひたすら歩むが、思わぬ時代の流れが運命に影を落とす。
母国フランスは革命で激変し、ドミニコ会との連絡も途絶えてしまった。安南に宣教師が派遣されているという記録も失われてしまった。
忘れられたその存在は、かつてのカンのようだ。
 
両国の歴史を背景に、描かれていたのはヴェトナムの自然や農民たちの中で生をまっとうした宣教師たちだった。とりわけ苦難や病気を乗り越え、人の雑念をそぎ落としたかに見えるドミニクとカトリーヌの姿だった。
宣教師という立場と忘れられた者という悲運が、情熱的、献身的に力強く運命を生き抜いた二人の周囲に静けさをかもし出す。

MEMO
修道士たちは本質的なものに近づいているのを感じていた。(p.61)
神は、あらゆるもののうちに住まっているのである。どんなものの中にも、それが無生物であっても、魂が宿っている。(p.101)
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