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石の幻影
いつか王子駅で
熊の敷石
河岸忘日抄
ビルキス、あるいはシバの女王への旅
ティファニーで朝食を
東京奇譚集
アフターダーク
土曜日
フロスト日和








フロスト日和       R・D・ウイングフィールド    芹沢 恵・訳

フロスト警部の第二弾。
やっぱり期待通り面白い。「上品じゃない指数」は作者も自信を得たか前作を上回り全開でしょうか。(いや、これは次作を読んでみないとわからない。でも、もっとエスカレートしたらどうしよう。)堂々700ページのニンマリ分量に内容も負けず劣らず盛りだくさん。
冒頭の事件現場の様子はちょっと辟易だし、犯罪は残虐で全体に深刻だった。でもめげて読むのをやめるわけにはいかない、フロスト警部ががんばっているんだから。
とにかく彼はああいうお方だけど(「クリスマスのフロスト」参照)、こんなにごちゃごちゃになってしまうのはそのせいだけではないでしょう、これは忙しすぎますよ。
なにしろホームレスの撲殺、ひき逃げ、少女の行方不明、金貨の盗難、連続婦女暴行事件、はてには警察官まで狙われた。大都市でもないのにデントン市警はおおわらわだ。

何かが気になったら今までやっていたことをそのまんま手放しちゃうとか、やりたいことはやっちゃいけなくてもやっちゃうとか、とにかく子供みたいな愛すべきおじさんだ。
でも、事件の真相に関しては結局誰よりも鋭かった。
前作では死にそうなまま終わったが、今回の最後はかっこよい。男が惚れる男であった。
<090409>






土曜日
           イアン・ マキューアン     小山 太一・訳





ロンドンのある土曜日のことだ。
夜明け前、ふと目を覚まし動機もなく窓辺に立った主人公ヘンリー・ペロウンは、あろうことかエンジンのあたりから火を吹きながら飛び去る飛行機を目撃する。
何かの必然だったのか。この異常な出来事が彼のその土曜日の始まりだった。

もともと何気なく過ぎるというよりは、確実に予定をこなすといったほうがあたっているような土曜日だったが、予定していることに突発的でしかも特異な出来事が加わり、平穏に過ぎてゆかないのは予兆が示すとおり。

日常と非日常とは紙一重。耐え難い不運も実はいつもの生活の中にまぎれているに過ぎない。何かの拍子に表面化し、連鎖し、静かな日常に波をたてる。
区別する意味はないのかもしれない、起こったことは引き受けなければならないからだ。
その積み重ねが一生を作っている。今日の一日は過去と将来につながっている。

「今」を描いたという意味で現代小説だ。
読み応えのある一冊だった。一日の話だけれど、一日で読みきれなかった。
ヘンリーの午前中の予定が済んだ頃でも、もうだいぶ読んだ気がしたのを記憶している。とにかく長い一日だったのだ。

MEMO
物は持ち主とその過去から切り離されると、がらくたになってしまう…
ペロウンは人間が実は何も所有したりできないことを理解した。すべては借り物なのだ。(p.335)
<090324>






アフターダーク
                            村上春樹



2004年の中編小説。
深夜のファミレスで分厚い本を黙々と読んでいるマリ、19歳。
そこへやってきてマリに気づき少しばかりしゃべって行く高橋というマリの姉エリの友人。
二人を軸に、深夜から夜が明けて一日が始まるまでのあれこれ。

そんな物の怪や妖精の時間帯の思考は、夜明けと共に消えはしないか。
いや、かえって冴えているのか。

人間は記憶を燃料にして生きているという
どんな記憶であるかは問わないそうだ
記憶があれば生きて行けるという意味にも解釈できるかもしれない。

恐ろしいものは意外とすぐそばにあることがある。
それと気がつかないまでも危険を避けて歩くには
本能的に分別する基本的な基準が必要で
それも記憶が燃料となって作られるといえそうだ。

自分の記憶をソフトウェアになぞらえて
書き換えたいと望んでも叶わないと感じている。
傷ついた部分は心の痛みだ。

こんなことを書いているところをみると
私はどうやらトロンボーンを吹く青年高橋が
印象に残っているらしい。
<090228>






東京奇譚集     村上春樹

村上作品の中にあって、この短編集がどういう位置にあるのかよくわからないのだけれど、すごく良い短編集を読めたというのが正直な感想。
“ノルウェイ”とか“鼠”とか、ずいぶん前に多少長編小説にも触れたのに、たぶんそのときはピンとこなかった。団塊の世代やビートルズファン世代にだけ分かり合える共通語が全体に漂っているような先入観を持ってしまって拗ねていた。でも、去年読んだエッセイ『遠い太鼓』は面白かったし、いくつか読んだ翻訳もテンポがいいし、この短編集もすごく気に入った。そして話題になった最近のスピーチにも共感したので、これから改めて村上作品を読んでゆきたいがどこからはじめよう?
新しいものからさかのぼろうか。

偶然の旅人
ハナレイ・ベイ
どこであれそれが見つかりそうな場所で
日々移動する腎臓のかたちをした石
品川猿

「偶然の旅人」
僕=村上が体験したトミー・フラナガンのライブにまつわる偶然を導入に、主人公のピアノ調律師に起きた偶然をを描く。

「ハナレイ・ベイ」では
南国の楽園ハワイのハナレイ・ベイで、主人公サチの息子はサメに襲われて命を落とした。そんな非日常に突然見舞われて動転するサチを主観的に、そしてその後の姿を近しい第三者のような視線で描く。

「どこであれそれが見つかりそうな場所で」
失踪者胡桃沢氏の空白の20日間。誰にもわからない、もしかしたら本人にも。でも誰にでもその潜在意識の中で理解できそうな。

「日々移動する腎臓のかたちをした石」は
ちょっと哲学的。男にとって本当に意味を持つ女と、主人公淳平が物語中で構想を練る小説。

「品川猿」
形を持たない「名前」が、名札になると現実的な存在になる。
猿だ、猿が大事な役目を持っている。以前に私が引っかかってしまった鼠や羊と関連する要因だろうかと思うと、少し萎える。
<090225>






ティファニーで朝食を
   トルーマン・カポーティ   村上春樹・訳

この本を未読だったばかりでなく、私は映画も観ていない。
別に観たくなかったわけではなく、ただ観そこなったままなのだけど
ちょっと珍しいかもね。
村上春樹さんの新訳が読む機会になった。

さて、カポーティですが、やっぱり好き。
もう、それ以上言えない。
おこがましいけど、うまい。

「ティファニーで朝食を」については、どういう話だっていうことも知らないで読んだので、100パーセント楽しみました。でも読み終わってから、ホリー・ゴライトリーという女性とオードリー・ヘップバーンが私の中で結びつかないことにはたと気がつき戸惑った。
ちょっと日にちが経ったので、多少想像できるようになったのだけど、これは一度映画も観てみなきゃ、と思っている。

他に
花盛りの家
ダイヤモンドのギター

そしてカポーティ作品で一番好きな
クリスマスの思い出
のあわせて4編
<090220>






ビルキス、あるいはシバの女王への旅
    アリエット アルメル  北原 ルミ・訳

いつもコメントくださるおはなさん情報からまず題名に惚れた。目を引く表紙、さらに扉画。手に取る条件は充分。

父の崩御により16歳の若さで女王となったシバ国のビルキス。お付きの者も含めて衆人の目から逃れられる唯一の場所である宮殿の中庭で、立たされてしまった環境におののき、逡巡する心とひとり葛藤する。

一方、人気の絵師になることと、鍛錬して自らの技量を高めることとの矛盾に悩み、仕事が手につかなくなっていた画家ピエロは、妻シルヴィアの語る物語に制作の意欲を感じ始めていた。

かたや旧約聖書の世界、こなたは実在した画家ピエロ・デッラ・フランチェスカをモデルとする初期ルネッサンスのイタリア、アレッツォでの話という想定。
簡単に言えば、このピエロ・デッラ・フランチェスカの「聖十字架伝説」という絵(表紙画はその中の「シバの女王の聖木への礼拝とソロモン王との会見」)が描かれた背景を読むわけだけれど、そこにシルヴィアが語るシバの女王の物語が織り込まれていて、気がつけば読者は冒頭からその物語の中にすでに放り込まれている。ピエロとシルヴィアの物語の中にビルキスの物語が入れ子状態になっているということだ。

それぞれの話は交互に章を重ね、次第に関連の度を深めてゆく。ビルキスは英知と権力で名高いソロモン王をエルサレムに訪ねる旅に出る。その地でソロモン王の偉大さに魅かれると同時に疑問にも気づき、女王としての立場に目覚めてゆく。その過程が盛り上がる。一方どんな力も才能も抗しきれない死に絶望しながら、ピエロも妻の献身を力に、自分のなすべきことを見つけ出し徐々に無になって描き始める。時を経てこうして作品を残しているピエロはある意味その絶望に打ち勝ったのかもしれない。

構成にも研究にも時間をかけて二つの物語をあやなっている様子が感じられ、全体に作者の思い入れが強く感じられる。どれだけ読み取れたかわからない、それは文字になっていない部分にも隠されていそうで渾身の作という印象。

シバの女王といえば、先ごろ亡くなったレーモン・ルフェーブルの楽曲を思い出す。でもこうしてシバの女王とソロモン王とのくだりを振り返ってみると、またちょっと違う味わい。私は中世の「黄金伝説」もよく知らないし、「旧約聖書」も読んでいない。文中、イサク(「イサクの犠牲」の少年)がソロモンの祖先だなんて出てくると、へぇ、そうなんだ!と正直驚いたりした。でも古来ずーっと愛されているエピソードがそのあたりにたくさんあるに違いない。知らないことをもっと知りたいと思った。
ピエロ・デッラ・フランチェスカの絵画については、サンセポルクロから以前絵はがきをもらったことを思い出した。見たことがあるのは違う絵なのに一見して筆が同じとわかるのは、固有の作風を持っていたということでそれだけで凄いと思う。ウフィッツィ美術館所蔵の人物像も相当印象に残っている。いつかこの「聖十字架伝説」も見てみたい。教会の中に描かれたフレスコ画とあればそこへ行くしかないけれど。

Memo:
砂漠はあらゆる探求の場所、深い瞑想の場所である…そこでこそ人間は、森羅万象に潜む真実にもっとも近づき、自分自身とふたたびめぐり会う…。(p.119)
<090204>







いつか王子駅で  熊の敷石  河岸忘日抄
                                 堀江敏幸

エッセイをリコメンドされたのに、小説三冊を手にとってしまいエッセイは次回ということに。ところが、三冊とも、正直言うとエッセイを読んだかのような読後感だ。
というのは、書かれていることもさることながら、随所で書いた人の人となりを思い浮かべてしまったからかもしれない。
常に考え、思い、見つけ出し続けている人、という印象。そして、話したいこと、充分に説明したいこと、がたくさんある人のようだ。時としていくつもの句読点でつながる長い文章は作者の持ち味であると同時にその必要を満たしている。表現は繊細で、文章はじっくり練られている。だからこちらもゆっくり味わう読み方がふさわしいと思う。

いつか王子駅で


王子という地名が個人的に記憶の中にあるものだからついひきつけられた。今でも都電が走る王子駅界隈はこの物語の舞台としてなかなか良い具合だ。
印鑑職人の正吉さんや大家さんの家族、居酒屋の女将や古書店の主、そういった人たちに囲まれ、程よい付き合い方でお世話になりながら「私」はこの町に住んでいる。
「私」は日常の中に文学を見つけ出す、生活のなかで文学している。


熊の敷石
表題作は第124回(2001年)芥川賞受賞作品。他に「砂売りが通る」「城址にて」

熊の敷石

翻訳の仕事でフランスを訪ねた「私」は、留学時代の友人に連絡を試みた。再会した旧友ヤンはいきいきとして、彼の人生を着実に歩んできたことが見て取れる。
アヴランシェとは、「私」の今回の仕事と関わる『フランス語辞典』の編者リトレの出身地であり、モン・サン・ミッシェルの尖塔を臨めるもっとも遠い海岸を持つ町だ。
ヤンはその町にまつわるユダヤ人のひとつの物語を教えてくれた。ヤンの祖父母は収容所を知っているし、両親まではイディッシュ語を話す。
仕事のために留守にするヤンの家にしばし一人で逗留し、その環境でさまざま思いをめぐらす「私」。

砂売りが通る
小品だけれど、趣がある。語らない部分を読むような。爽やかさが心に残った。


河岸忘日抄

異国のある河に繋留された船を借り、住むことになった「彼」。河岸に住むというのではない、住まいは河に浮かんでいる。河は流れている、が、彼の船は進むでも漂うでもなくそこにとどまっている。

今はそうする時なのだというように、その状況を甘受して味わいながら過ごす日々。船内は調度が洗練され、音楽や読書に浸ることができる空間だ。郵便配達人が時々やってきてコーヒーを一緒に飲んでゆく。船の持ち主の老人をお見舞いがてら訪ねることもある。日本からは友人がファックスを送ってくることがあるし、彼の焼くクレープを食べに訪れる少女もいる。が、それ以上の人との交流はほとんどない。

先日読んだブッツァーティが、なかでも「コロンブレ」がだしぬけに文中に登場した時は、ほぅと思った。そのほかチェーホフやクロフツの「樽」、タルコフスキーの「封印された時間」などが挟み込まれる。
さまざまな思いが寄せて来ては引いてゆく、そのいろいろを日記のようにしたためる「彼」の心を、いつの間にか一人称で追体験しているように読み取っていた。
読み終わればしーんとした静けさと、なにやらしみじみとした気持ちが残る作品だった。

忘日とは何と思えばいいだろう?

>海にむかう水が目のまえを流れていさえすれば、どんな国のどんな街であろうと、自分のいる場所は河岸と呼ばれていいはずだ、と彼は思っていた。

冒頭の文章が終盤に繰り返されたとき、私は自分が眠っていたような気がした。また最初に戻って読み直そうか、と。それは間違っていないような気がする、もう一度、そしてもう一度、そのときの思考を思い出し深めるために。
まるで中味が圧縮されて詰まっているような、濃厚な作品だった。
<090126>







石の幻影       ディーノ・ブッツァーティ    大久保憲子・訳



不安を描く作家なんだろうか。不安を抱かせるというより不安そのものを書いていて、あながち過敏とは言えない(と思う)ところがまた不安の種。

表題作の中篇と5編の短編からなる。
うち2編「海獣コロンブレ」「謙虚な司祭」は、『神を見た犬』(関口英子・訳)で既読、どちらも印象深い。

石の幻影
海獣コロンブレ
一九八〇年の教訓
誤報が招いた死
謙虚な司祭
拝啓 新聞社主幹殿

さて、表題作「石の幻影」
大昔のコンピューターを思わせるような巨大な人工頭脳は、ちょっとした山ほどのおおきさで、見かけは要塞のようかもしれない。
電子工学教授イスマーニは国防省から呼び出された。要請内容は国家機密に類することのようでなかなか明解に説明されず、しかも事は進められてしまい断れない雰囲気。図らずも後戻りできない状態に陥り、なんと不安なこと!
何なのだなんなのだろう、関わりたくない、でも知りたい。これは読者の気持ちでもある。

頭脳は突き詰めると感情に行き当たるのか。
この人工頭脳は感情を持ち、その表現力は人間の言葉を超えているらしい。
改めて感情の無限、すごさを思った。
作者もすごい。
どうして私は、この頭脳が只の機械だとは思えなくなってしまったのだろう、その心情(?)を人の気持ちで慮ってしまうまで。
<090116>






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