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草すべり  その他の短篇
求婚する男
海に住む少女
ショーシャ 
敵、ある愛の物語
風の歌を聴け
1973年のピンボール
羊をめぐる冒険(上・下)
遠い声遠い部屋
優雅なハリネズミ
東方奇譚
ダンス・ダンス・ダンス







ダンス・ダンス・ダンス                     村上春樹

 

ちょっとなじめない題名だったけど、手に取ってみれば。
あの三部作に通じる「いるかホテル」が再登場しているではないか、読まなければ。

面白かった、楽しめた。
幻想的でありながらリアリティがある。

ストンと納得するというより、伝わってくる雰囲気が気持ちの収まりの良いところにしっくり落ち着くという感じ。私にとって村上作品は、そんな風に味わえれば満足だ。

心の引っかかりに向き合うために出向いた札幌「いるかホテル」は「ドルフィンホテル」と名前を変え、建物自体が一新されていた。でも「僕」はそこに尚「いるかホテル」が存在していることを実感する。

6個目の白骨を心に留め、何かに導かれながら、自分の力で踊り続ける。
<091120>






東方奇譚         マルグリット・ユルスナール  多田智満子・訳


ベルギー生まれ、フランス語による作家。題名が示すとおり東方に題材を得た短編集。

老絵師の行方
マルコの微笑
死者の乳
源氏の君の最後の恋
ネーレイデスに恋した男
燕の聖母
寡婦アフロディシア
斬首されたカーリ女神
コルネリウス・ベルクの悲しみ

白眉は「老絵師の行方」。これだけでこの一冊は満足といえる美しさ。幻想的な墨絵の世界のようだった。旅する貧しい老画家、汪佛(わんふぉ)。師に沿う弟子の玲(りん)。二人の旅行く様子だ。
― ・・・ 船出いたしましょう、師よ、波の彼方の国に向かって。
―行こう、と老絵師が言った。

巻頭ですっかり魅了されてしまったので、後の作品が物足りなく感じてしまったくらいだが、それぞれに見事に趣を違えた短編が揃えてある。
世界の古典文学や歴史に造詣が深くなくては書けない異国情緒たっぷりの物語。

ただオリエントの中でも日本がモチーフになってくると、自然に点が辛くなってしまった。「源氏の君の最後の恋」はどうだろう?読みながらあちらこちらで引っかかる。ストーリーは面白いのだけれど、そうだ、「花散里」が引っかかるのだ。この名前が使われていなければ、源氏物語のその後のひとつとして興味深く読めたのか。 

「斬首されたカーリ女神」は強烈だ。厭わしく悲しく。
<091025>







優雅なハリネズミ       ミュリエル・バルベリ   河村真紀子・訳


>私はルネ、54歳、管理人で独学者です。

主人公は、パリのグルネル通り七番地に建つ高級アパルトマン一階に住む管理人ルネ。
知的であることを隠して生活している。本当は文学や芸術を愛しているが、愚鈍を装っている。多少意識が過剰なのではないかと感じさせるが、フランスに残る見えない階級意識を実感できない立場では滅多なことは言えない。

住人の中にパロマという少女がいる。つまり富裕層の子女だが頭脳明晰である意味で天才。周囲のあらゆるものに絶望するあまり13歳の誕生日には自殺しようと考えている。

生活にも年齢にも何も接点のない間柄だが、管理人室を心地よい逃げ場所だと感じる点において、二人には共通点があった。

ある日このアパルトマンに日本人のオヅが引っ越してくる。オヅは違う価値観を持った、まったく外部からの風だった。その風がルネとパロマの心を救う。

正直いうと前半は少し退屈だった。あまりに批判的、否定的なもの言いが気になったからだ。でもそのよじれた考え方が後半の展開の伏線になるわけだ、やむなし。
<091017>






遠い声 遠い部屋 
                  トルーマン・カポーティ    河野一郎・訳

今年の夏はこれを楽しんでいた。
私にとってカポーティは、今のところはずれなしに読ませてくれる魅力的な作家だ。
1948年1月、彼は本作の発表を以って、その容貌や人となりも話題となり、センセーショナルに文壇にデビューした。二十歳代前半ですでに無二の世界を持ち、しかも表現していると思う。
少年の心を描くのに長けているとはよく言われるが、本当にそうだ。鋭く繊細な視点で普遍を読ませてくれる。

純粋にして敏感、そして賢い。大人びた部分と子供らしさを併せ持つ微妙な年頃が、年齢的に早くから訪れていたような少年ジョエル。母の死後父を探して知らない町にくることになったが、そこにいるのは子供扱い方を知らないおとなばかり。

遠い部屋は誰にでもあったもの。いつまで記憶しているだろう?
<091005>





風の歌を聴け
1973年のピンボール
羊をめぐる冒険                村上春樹

札幌に旅行するにあたって「羊をめぐる冒険」を読む(初読)。
軽快な文章が読みやすく、内容も魅力的でどんどん読めるが、本当は途中で立ち止まり、読み返し、反芻したかった部分があったのを、ついそのまま読み終えてしまったので消化不良となる。
「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」に続く三部作の完結編とあったので探してみるとこの二作を書棚に発見。読み始めるとうっすら記憶もよみがえった。どうやら以前は三部作読み通さずじまいだったようだ。たぶん「羊」と「鼠」の存在にひっかかってしまったのだと思う、今回と同じように。

ただ、今回は「鼠」という個性に惹かれた。村上春樹さんは、作品個々でというよりは全作品を通して何かをかもし出す作家なのかもしれない。

引き続き、本棚の「国境の南、太陽の西」を読む、読めば記憶がよみがえる。「ノルウェイの森」も掘り出せたので、たぶんそのうちもう一回。

再読を繰り返し、雰囲気を味わいながら私なりに咀嚼してみないとと思う。平易な文章の影に隠れた難しさ、作者の意図を測らなければというちょっとした強迫観が落ち着かない読後感を残す。正直なところ今はまだ読み終えたという気がしない。こういう小説も珍しい。
<090804>






敵、ある愛の物語      アイザック・B・シンガー   田内初義・訳

アイザック・シンガー、読み終えて脱力の2冊目。
愛の物語といっても甘いお話ではない。良い方へは決して転がらない悲惨の連鎖。
大量殺戮から命がけで生き延びて、アメリカへ渡ったユダヤ人の苦労は計り知れない。生死もわからないまま離れ離れになった家族がどれだけあったことか。
その時代を生きた人たち一人ひとりが「癒すことができない根本的な傷」を負ってしまった。だれが悪いわけでもない、強いて言えば追い詰められた気弱な主人公ハーマンが周囲の人間を巻き添えにしてはいるが、彼にしたって時代の被害者だ。自分の幸運を信じられず、自信も持てず、生きていること自体に居心地の悪さを感じている。

戦後間もないニューヨーク。収容所生活の果てに両親も妻も二人の息子までも亡くしたハーマンは、かくまってくれた異教徒の娘ヤドウィガと再婚してアメリカで生活を始めたが、やはり母国ポーランドでユダヤ人として辛酸をなめ、同じようにアメリカへ母と渡ってきていた美貌のマーシャをも熱愛し、二重生活をしている。そこへポーランドで亡くなったはずの元の妻タマラが現れた。
一歩間違えば喜劇の設定だが、読み進むほどにぐいぐいひきつける筆致は、当事者たちの切迫した状況が押し寄せてきて息苦しいほどだ。

全員でもつれ合い最悪のところまで混乱したが、個々がとったその後の道はさまざまだった。

「ショーシャ」にしても「敵、ある愛の物語」にしても、主人公には作者の実生活が反映している。体験者にしか書けない宝物。
アイザック・B・シンガー、イディッシュ語で作品を残した作家。1978年ノーベル文学賞。
<090704>







ショーシャ       アイザック・シンガー     大崎ふみ子・訳


第二次世界大戦直前のポーランド。
主人公アーロンはラビの息子として生まれたが、父の反対をよそにワルシャワの一角にあったユダヤ人社会を離れて物書きへの道を目指していた。

作家クラブに出入りして人間関係は多彩だ。イディッシュ語の舞台を実現しようとするアメリカの大富豪サム・ドレイマンとその恋人で女優のベティ。哲学者のファイテルゾーン博士。博士を崇拝するシーリアと、その夫で多少浮世離れした印象の自由人ハイムル。共産党員のドラ。

その一方でアーロンはショーシャとの純粋な愛情関係からも離れられない。ショーシャはアーロンが少年時代をすごしたクロホマルナ通りに住む幼馴染だ。家を出てから20年を経て、クロホマルナ通りに帰ったアーロンはショーシャと再会した。ショーシャは子供のまま心も身体も成長が止まってしまった娘だったが、彼らの信頼関係は瞬時に甦ったのだ。

戦争やヒトラーの脅威が色濃いその時代のその場所。消し去られてしまった、今はもうない風景と生活が語られている。大勢の中にあって人の営みは小さいが、それぞれが意思を持って、信じるものに忠実に生きている様子がいとおしい。

エピローグの美しさは感動的だった。過ぎ去った日々、心に残る人々。それをこうして記すことはどんなに大切なことだろう。
それが文中にあった「世界の本」の考え方に通じている。
死んでしまった妹がいないのをさびしがるショーシャにアーロンは言った。
「僕がイェッペを生き返らせるよ」

>世界の歴史は人がただ先だけを読むことができる本なのだ。この、世界の本のページを後戻りしてめくることは決してできない。だがかつてあったものはすべて、まだ存在している。イェッペはどこかで生きている。

「閉じてあるページ」の中に。
<090621>






海に住む少女          シュペルヴィエル    永田千奈・訳

南米ウルグアイを心のふるさととするフランス人作家、ジュール・シュペルヴィエルの幻想的短編集。堀口大學はじめ古くから翻訳されて紹介されていたらしいが、わたしは始めての作家だった。光文社の古典新訳文庫にて。

なんとも言えないこの世界観は独創的で私には心地よかった。一つひとつの作品は、小さなキャンバスに淡い色で描かれた抽象画といった風情だ。
わたくし的今年の上期ベスト3に堂々ランキング。

まるで意思を持っているかのようにみえる町が海に浮かんでいる。沖に船を認めると自然に海の中に姿を消してしまうから誰もその存在に気付かない。
町には永遠に12歳の少女がたった一人住んでいる。
人が創り出す幻に宿っている心。

セーヌ河に身を投げた19歳の少女には、生と死とその間のどちらでもない空間をさまよわせている。

別の作品では、死の世界を描いている。物も魂も、音も光もまぼろし。でも死者からみると現世は、生きているものがおもう死の世界より近しいようだ。
<090603>






求婚する男      ルース・レンデル     羽田詩津子・訳

毎週土曜日には決まって昼食を共にする男と女。
その習慣が意味するものは、男と女ではあまりに違うものだった。

盲目的で独りよがりな恋愛に十数年執着する男ガイ・カラン。
ガイの側から描いているので、その展開にややもすると同情心を起こしかねないが、純愛から生じた気持ちといえど度が過ぎる。どんな気持ちからでも迫られる女性にとって拒絶が受け入れられない上に異常に接しられるのは恐怖だ。
ちょっと冷静になれればこんなことにはならないはずなのに、などといっても始まらない。
異常に気付く余裕がないまま、自分だけの理想の愛にひたりきり抜け出せない勘違い。
気付いたときはすでに…。
<090506>







草すべり  その他の短篇           南木 佳士

作品を読むのは「阿弥陀堂だより」以来まだ二冊目なのだが、この人のつまり作者の、ちょっとしたものの感じ方のナイーブさが好きだ。
人生について話すとき「生きる」ではなく「生きのびる」「生きのびた」というフレーズが印象に残っている。使われるたびにそれぞれそこに含まれる意味がいろいろで、感慨深い。

ガン患者の終末に、医者としてかかわり最後に立ち会うことが、だんだんその心をもろくするということは想像に難くない。医療従事者が時として機械的に人の死に接するのは、ひとつにはその心を守るための無意識な自衛なのかもしれない。でもこの短編集の主人公たちはみな、鬱やパニック症候群を抱えながら「生きのびて」きた。中年を過ぎて始めた登山が、心を癒し不安定な気持ちの均衡を保つのに役立っているようだ。

草すべり
旧盆
バカ尾根
穂高山

一番好きなのはやはり表題作「草すべり」
学生の頃一目置き、憧れてもいた沙絵ちゃんと卒業以来40年ぶりに再会し、一緒に浅間山に登ることになったその様子。
「まだ、もうすこし歩いていたいよね。」
<090413>


  












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